皆さまからのおたより・2

祈り通信講座を進めている皆様の、体験談です。
尚、文中に出てくる祈らら以外の人名や方法や考え方などは、それぞれの方の経験です。
祈ららでおすすめしているというわけではありませんので、取り入れる場合は自己責任で行ってください。


■先生の提供してくださるものは、祈りも、天然石も実力重視で飾らないものが多いなあと思います。
しかし、やってみるとパワー満載で、いつも驚き、たくさんの気づきをいただいております。
ありがとうございます。

■いつも、朝仏壇と神棚に向かって祈っておりますが、ある日の夜、お風呂に入り、すっかり寝る準備を整えてから、神棚に向かって祈っておりました。目を閉じて祈りの言葉を唱えていますと、自分の身体が1.5倍ぐらいに大きくなった感覚があり、とても気持ち良くなりました。
眠かったので、錯覚かなと思いましたが、その後も夜祈った時は、何度かそういう感覚を感じました。
この感覚は、朝は感じたことがなく、夜自分をスッキリとさせてからでないと感じられないようなので、心身を整えてから祈るということも大切だなと思いました。

「自分は肉体の身体だけでない、もっと大きなエネルギーだ」ということを感じられたような祈りでした。

■なるほど~、先祖と子孫の心の中は食い違っていることもあるのですね。
義母のご先祖様のお墓は、昔りんご畑だった山の道を少し入ったところにあって、竹林に囲まれていました。
8月の真夏の暑さでしたが、お墓は竹林の陰で涼しく、さわさわと竹の音がして、それはそれは気持ちいい場所でした。
あ、でも無事お墓に到着するまでに、入る脇道を間違え道に迷い、2回ほどグルグルと車で走り周りました。
少しは邪魔もあったのかもしれません。
義母とのイザコザで、私はこちらの家にカルマがあるのかなあなんて考えていたので、先祖供養がこんなに気持ち良くできるということにびっくりでした。

■霊の祈り2を初めて1年以上経ちます。
毎日祈りをできているわけではありませんが、マイペースに続けています。先日やっと義母の実家のお墓参りが出来ました。
義母の先祖のお墓は、昔農地だったところにあり、正確な位置がわからなかったのでした。
義母とは言い争いもあったり、今まで引っかかりを感じていたのですが、お墓ではとても爽やかな雰囲気を感じました。

きっと怒られるだろうと思ったお墓での先祖供養も穏やかでした。
おそるおそる訪れたお墓で、こんなに気持ちになるとは驚きでした。

いままで1年ほどお仏壇で祈ってきた成果かもしれませんし、ご先祖様方はとても穏やかな方々だったのかもしれません。

本当に意外で、ありがたく、素直に祈りと感謝が伝えられたように思います。

祈りが終わっても、しばらくそこで爽やかな空気を感じていました。

隣町ですので、これからしばらく参らせていただこうと思いました。

■霊の祈りレベル2を1年ほど祈っています。最初、「神棚を買いたい、仏壇に御本尊様をいれてきちんとしたい」と言ったところ、夫は「神様やご先祖を大切にする気持ちがあればいいんだから、そんなの必要か?」などと言っていました。
私は「だから見えるカタチが必要なんじゃないの?」といい、祈りを進めたかったので、半ば強引に神棚を購入、お仏壇を整え祈り始めました。
最初は見て見ぬ振りをしていた主人ですが、最近、こっそり見ていると神棚に柏手を打って出かけていく様子を見ました。
付き合いでお葬式に出る機会も多いのですが、帰って来たあとは仏壇にお線香をあげ、なんだかブツブツ言っています。
なにか報告しているようです。
こういう形でも主人が神々、ご先祖様とのつながりを持とうとしているのは、祈ららの祈りのおかげかなあと思っております。

まだまだレベル2の道半ばですので、どういう変化が起こるかわかりませんが、続けていこうと思います。

■本日レベル3の参拝の時に「○○は任せてください。」と思いつき、涙があふれました。レベル3の参拝で涙でたのは初めてかと思います。
充実した参拝になりました。
これからもコツコツぼちぼちやっていきます。

■瑞の祈りの資料をお送りいただき、ありがとうございました。
昨日、今日と、鎮守の参拝をしてきました。私にはまだ祈りをするのは早いのではないかという気持ちがありましたが、参拝をさせていただくとすっきりして、この感覚を忘れたくないと思いました。
初日は社殿の階段に蝉の死骸がたくさん落ちていたり、毛虫の糞で境内が汚れていたりして、ちょっと弱気になっていたのですが、二日目に行くとすっかりきれいになっていました。

たまたまだった可能性もありますが、ご鎮守様が快く私を迎えてくださったのかもしれない と嬉しくなりました。
(と書きながら泣きそうになっています)

■今日神だなで祈っていたら、のりとをあげている時にスサノオの命から、「恋は難しいのぉ。。。この話しでそちと一杯いけそうじゃ。」とはっきり聞こえてきて祝詞の途中で吹き出してしまいました(笑)スサノオの命は私がいつも真剣に困ってるときに笑顔にさせてくれます♪

■お仏壇の前で瑞の祈りを捧げていると、ご先祖様が喜んでくださっているのを感じられるような気がします。
また、なんとなくですが、供養のしはじめは体調不良等自分自身の生活にいろいろな変化が起こり、継続して同じ方の供養を続けていると日に日に自分自身の生活が穏やかになっていくように感じられます。

■神社にお参りしてきました。
ここは鎮守というだけでなく、産土神さまだと思います。
近くですが今となっては滅多に行かない場所です。神社のすぐ側にある私の生家は潰れていて、家の基礎が残っていました。
懐かしい木々の匂い。
父母を亡くして○ヶ月のわたしは、その家の跡地や周りの景色に泣いてしまいました。
神社の神様は、とてもとても暖かく迎えて下さったと思います。
おかえりと言われたような気がします。
子供の頃遊びながら見上げていた神社の森の雰囲気そのままでした。
爽やかな風を吹かせてくださいました。
爽やかで濃さや重さがなく、自然な感じがしました。
実はわたしは引越しの予定があります。
ですがわたしは、○○がとても大好きで、ここを離れることはとても悲しいです。
あちらのお家の鎮守は多分□□神社さんで、引っ越すならば□□、と何度か自分のチャネリングでメッセージを受けとっていたので(最初は□□は地名の事かと思っていましたが、□□神社というのが日本中にあるのですね。)家が決まった後に地図をみて□□神社をみつけ、やっぱりかーと思いました。

でも離れる前に(;-;)、まるで故郷のような○○神社さんに行く機会を設けられてよかったな、と思います。
私の子、と言われたような気がしました。
わたしは妊娠期間中を○○で過ごしていた時もあったので、子供たちの産土神さまも○○神社なのかもしれません。
結構大変だったわたしの妊娠期間などを、私の知らぬところでお助け下さっていたのかもしれないと思ってしまうくらい優しかった。
今度は子供たちとも一緒に行ってみたいなと思いました。

■カルマ浄化の祈りは6年ほど前からでしょうか、気にはなっていたものの、他の学びを優先させてきました。
元々他者や精霊神々の波動と共振する性質があるため、これ以上霊感が開いて過敏になってしまったらと思うと日常生活に支障が出てしまうとも思いましたものですから、躊躇しておりました。ですがやってみたい、思うことは何でもやってみてから考えようという考え方になることが出来ましたし、これまでに自分が学んできたものとの似ているところや違うところがありそうで、好奇心が湧いてまいりました。
更なる真理の体感を得られることを期待しております。
どうぞこれからよろしくお願いします(*・ω・)*_ _))ペコリン

■今日は昼間家でドラゴンアイズを読みながら、うとうと…。
やっぱり昼寝を2時間もしてしまいました。
ドラゴンアイズバックナンバーも高波動だな~と感じた次第です。

■霊の祈りレベル1の21日間参拝が終わりました。
参拝を始める時、正直カルマ浄化ということが不安でした。
家族への影響も考えると、参拝を始めて良いのだろうかと悩みましたが、先に瑞の祈り1を終えていて、鎮守参拝に惹かれていましたので、レベル1に入ることを決心しました。
それでも毎日祈らせていただきながらも不安や心配は続きました。私には霊感はないので、皆さんが体験されているような不思議なことは何もないのですが、21日間参拝している間に、家の給湯器のスイッチが突然つかなくなったり、トイレに何か落としてしまったのかトイレが詰まってしまい、慌てて業者を手配したりとバタバタしました。
私自身は体調不良などはなかったのですが、子どもは風邪をひき、長いこと咳が引かなくて心配でした。
主人も日頃の疲れが出てしまったのか、高熱を出してしまい、仕事を休まなければならなくなったりしました。

今思い出すと、これらが浄化だったのかなと思ったりしています。

21日間の参拝は満願しましたが、今でも鎮守の祈りは続けています。

最近では、祈らせてもらえることに感謝する気持ちになっていて、いつもありがとうございますと、伝えるようになりました。

これからも鎮守参拝は続けていきたいと思っています。
そして、次のステップに進みたいと思っています。
紫野ひかりさんに出会えたこと、鎮守参拝を知ることが出来たことに感謝しています。

■以前からパワーストーンは好きでした。父が倒れてから、私もこれからの生き方に興味を抱くようになり
ネットで検索していて、祈ららのサイトを見つけました。
不安があったので、瑞の祈りから始めています。
自分の気持ちをみつめるチャンスに巡りあえて良かったです。

■資料が届いた翌日(祈り開始2日前)から突然左足裏に痛みと痺れを感じました。
祈り始める前は続けられるかどうか不安で、田舎の集落なので、人目がとても気になりました。最初はなんだか落ち着かず、祈りに集中できず注意散漫な状態でした。
都合上、夜の参拝が多かったのですが、初めて夜に祈った時は、境内の扉が突然カタカタなってびびってしまいました。
1週間ほどで、だんだん祈りにも集中できるようになり、人目も気にならなくなってきました。
恐怖心も和らいで、祈りに行くのが毎日楽しみになりました。
祈っている時に、左側に気配を感じたり、何かいるように見えることがありました。

10日目にご祭神様のことが突然気になり、調べました。
何かはわかったのですが、いまいちどんな神様なのかわかりませんでした。
祈っていても反応はあるのだけれど、なんか言葉とかではないエネルギーみたいなものを感じました。

左足の痛みと痺れは相変わらずで、他にも左肩の痛みや、左手に軽い湿疹みたいなものがでたり、左半身にいろんな症状がでました。

祈りを続けながら、2週間目にいつもよく行く一ノ宮にお参りに行きました。
神社の傍に川が流れているのですが、そこで足を洗うといいと思い川に入りました。
それからいつの間にか、左足の痛みと痺れはなくなっていました。
なくなって初めて、あー、これはカルマ出しだったんだなと思いました。

祈りを続けるなかで、ご祭神様のことをもっと知りたいなあと思っていたら、職場の近くでその神様がテーマの講演会がたまたまありました。
昼休みだけ参加して、ご祭神様の特集の本を購入することができました。
こんなに講演会や本を出すほど、熱心に研究してる方がたくさんいるとは、謎が多く、でも愛されて根付いてる神様なのだなと思いました。

3週目は、祈りの時ではなく生活してるなかで、突然涙が込み上げて、祈りの内容の気持ちでいっぱいになることがありました。
そして生かされているということを自覚しました。

境内で祈っていると、頭から足にかけてエネルギーが通るのが感じられるようになりました。
こんな近くに強力なパワースポットがあったんですね!

19日目にまた左足の痛みと痺れが出ました。
(今度はすぐ治りました。)
祈り始めて、いろいろ症状や出来事が起こりましたがそのことよりも、これぐらいで済んでいることにありがたいと思い、守られていることに感謝の気持ちが溢れてきます。

21日目。無事に毎日通うことができました。
その感謝を伝えていると、見守っているからなという思いが心に伝わってきて、初めて祈りの最中に涙が溢れてきました。
そしてこれで終わりでなく、やっと神様とのつながりができて、ここからが始まりなのだと思いました。

祈りを始めてから3週間、心が落ち着いていられることが多くなってきた気がします。
うまくいかないことも、おまかせで、なるようになっていくと、以前より焦らずにいられる気がします。
始めることができて本当によかったです。
ありがとうございました。

■トラブル解決に行った帰りに、鎮守に行こうと思い立ち、行きました。
車を降りた時に、よくやった。と言われたような気がしました。祈っている最中、
『重荷を背おわせて悪かった』
『とんでもないです。(そのあとも何か言いましたが忘れてしまいました)』
2言3言やりとりがありましたが忘れてしまいました。
祈っていたら涙がでてきました。
先ほどのやりとりは正直辟易としたけれど、別に泣くほど嫌だったわけでもなく…あれ?となりました。
会報に載っていた、これがご祭神様の涙なのかな?と思いました。

私は感情とか鈍いし、祈りとかもちゃんと出来ていないから、きっと2年経っても涙なんて出ないだろうなと日々思っていました。
祈りながら、(大変申し訳ないことなんですが)あっけなかったな、なんて不埒な考えをしてしまいました。

そのあとの祈りの言葉が響いて響いて下の家に聞こえてしまうのではないかと心配になり、ボリュームを落としました。

家の神棚(としているところ)で落ち着いて話せるようお願いをしてから行ったので、帰ってから、御礼をしました。
神棚でも祝詞や祈りが、響きだしました。

ドラゴンアイズで、紫野先生が神社との和解の見極めを声が響くかどうかで見極めるというのが書いてありましたが、それは紫野先生だけしかないことだと思っていました。
響くなんてことが、涙がでる、なんてことが、あるんですね。
私には絶対ないと思っていましたから、びっくりしました。

参拝の際か終わってからか、父は鎮守の神社の氏子として、ここに引っ越してきてすぐから神社の神輿をかつぎ、足が悪くなりかつげなくなってからはずっと法被を着て、祭に奉仕してきていました。
だから、神社の神様は21日満願の日に、私に知らせるように父への手紙がポストに入っているのを見せ、随所随所でこの問題を私が知ることができるように働きかけてくださって、この問題に携わる時だけ、私に神がかるのだと思いました。

鎮守の神は父が悩んでいることをずっと知っていて、私を通して助けたかったのだと思いました。
愛の懐の深さに言葉がでません。

先生にご報告させていただきたく、メールを送らせていただきました。

私に教えていただき有り難うございます。
これからを謙虚に進めていけるよう、気を引き締めて参ります。

■○○明神に久々に参拝しました。参拝の列にならんでるとき、○○明神さん大好きだなぁ、って思い、「なんでこんなに○○明神さん大好きなんだろう!」って思った瞬間、顔がくしゃってなって涙があふれました。
きっと相思相愛なんですね!
まっ社でも「ちかごろのそなたは自分を大事にしていて進歩がみられる」と思いうかび、ありがとうございます、と思いながら涙が浮かびました。

帰りに○○明神さんの近くの書店で役立ちそうなステキな本をみつけて、買ってきました。
きっと○○明神さんのプレゼントかなって思います。

こう書いてる今も涙が自然に浮かびます。

■鎮守への参拝を続けながら霊の祈りレベル2を続けています。約1ヶ月程半祈りを続けたところ、不思議なことに義父が頻繁に連絡してくるようになりました。
今までは緊急時しか私の携帯には電話してこなかったのですが、このところ、なんでもないことでも連絡がきます。
「もうすぐ雨がふるから、洗濯物入れとけよ~」とか(仕事先から、私の自宅が見えます。私はそのとき不在でした)、子供の学費もお祝いをくれました。
細かいことを気遣ってくれて、人が変わったようで、ちょっと面白いです。

なんとなく義父のご先祖様に守られているような気分がします。

今日、21日間満願の日でした。
久し振りに初めから集中できました。粒子が吸い込まれていくようなものが見える時が、自分的に祈りに集中できている時なのだなとこの祈りをはじめて感じました。
21日間の間では2回でした。

わたしはすぐに驕りやすいし期待しやすいし、油断しやすい性格なので、集中するって難しいと思いました。

明日は神社の大祭です。
大祭前日に満願となりました。

祈っていて、何しにきているのか。という男性っぽい想念がわきました。

すぐに答えられませんでした。

心が求めるままにきていますと答えましたが、ちゃんと答えられないので、宿題にして持ち帰りますと答え直しました。

質問してきた想念もわかった。みたいな感じでした。
言葉遣いはわかった。ではありませんでしたが。

祈っている最中、想念を感じたことは初めてでした。

ご祭神様かどうかどんなそんな存在に尋ねられているのか、自分の想念かはわかりませんでしたが、
『なにしにきているのか』はなんのための祈りなのかを自分でしっかりと自覚できていないし、する必要があることを自覚させる質問だったと思うので、これから霊の祈り1の2回目を自分の中であきらかにしていく課題だと思いました。

21日最後は2日目の時のような何か見えるかなとどこかで期待がありましたが、注意というか今後に向けて気持ちを引き締める参拝となりました。

■霊の祈りの資料が到着する前から浄化が始まりました。
夜にお昼に食べた物をすべて嘔吐しました。
同じ夜、家族は家に帰ってきた途端お腹が痛くなり、何も食べずに寝て、次の日にはよくなったようです。2日後、資料が到着しました。
会報1.2号を読んだところで、赤い湿疹が右、左の腕に身体の内からでできました。
寝る時、横になって目を閉じたとき、鮮やかな青緑色の装束をまとった髪を両耳の上わっかが垂れ下がるようにした人の後ろ横姿が見えました。
そのあと、しばらくして何か違うのが見えましたが、眠くて次の日には忘れてしまいました。

2こめは神社に関係した何かのようにも思えました。
見えた感覚は初めてだったのでびっくりしました。

次の日から霊の祈りレベル1を始めました。
時間がなく少ししか祈れないことをお詫びしたらカラスがクワァクワァクワァと優しく鳴いてくれました。

祈りはじめてしばらくすると、ジャリと玉砂利を踏むような音がして人が来た気配を感じます。
振り返りますが誰もいません。
(参拝している鎮守の神社は玉砂利がなく、アスファルトの参道とそれ以外は原っぱなので、ジャリとする音がするのは考えると変なのですが)

瑞の祈りの途中くらいから、そのようなことは毎回ありました。
会報を読み、守護霊様と知り、安心しました。

2日目、参拝が終わって振り返ると、参道に高さ3メートルくらいのおっきな金剛力士みたいな感じがそびえ立っていました。
金剛力士と同じくらいの背丈の杖?のようなものを向かって左に手にしていました。
白と透明みたいな感じで、キラキラした感じで、色彩はありませんでした。

■瑞の祈りレベル1が終わりました。
有難うございました。
もっと早く鎮守の神社に寄せていただけたらと思いました。祈りを決めた途端に、誰かに触られている感じが数回ありました。
神社を参拝させていただくと風が吹き始め、温かい感じがしました。
毎回参拝後、清々しい感じで過ごせることができました。
20日目に、それまで優しく接して下さった方が、キツい顔で私を見られて、急に怒られてびっくりしました。

次に祈りをすすめると決めてから、どっと疲れが出て、風邪をひいてしまいました。
初心に戻って参拝させていただきました。
有難うございました。

■瑞の祈りを始めてから、毎日を気分よく過ごせていた。
神社に行くのが大変になり、1週間半ほどお休みしていたら、またイライラしだして、前から悩んでいた症状がでてきた。
瑞の祈りをまた再開しだしたら、少しずつ回復し始めた。
問題からの回復は自分自身の意思や祈りも大切なのだと今回の件で感じた。

■鎮守の祈りでは、私の単なる妄想かもしれませんが、祈る時、扉の向こう側が湧いているような感じがあり、面白いです。
この4ヶ月を終え、不思議と夫への怒りが収まってきました。嫁ぎ先の家業の手伝いがあまり抵抗なくできるようになってきました。

■旦那の実家の氏神様に初めて参拝したとき、紺色の平安装束を着た男性が、お祈りをしている私の前に立って、私の肩を持ちながら私の顔を覗き込んできました。
いやな気持は全くせず、微笑んでいるように見えました。
夫婦はカルマが重いと聞いていたので、歓迎されるわけはないと思いましたが驚きました。

■昨日より鎮守の神様のお祈りを娘達(6才と8才)が一緒にさせて欲しいと言い出し、3人でたどたどしくお祈りさせていただいております。
上の娘が神様に涙しておりました。神様との繋がりが感じられてからは苦しみにも意味があると頭だけではなく心で理解出来るようになりました。
子供達にも、これからの人生色々経験する時に神様との繋がりを感じた上での受け止め方ができれば、それが一番学んで欲しい事だったんだなと思います。
紫野様のブログと出会える事ができ、鎮守の神様と繋がりを持てるようになりましてから私の人生ひっくり返る位変わりました。
表面上は変化ないのですが、心の中がいつもポカポカしていて愛で満たされております。

見ず知らずの人達も、魂の仲間と思えるようになりましたので愛しいと思える時があります。
波がありますが(笑)

本当に感謝しております。
今後とも宜しくお願い致します。

※ 神社で流れる涙は、ご祭神の心を感じています。
娘さんは神様の心を受け取られたのですね!
本当に素晴らしいと思いました。
神様は、心の通りに接してくれますね。
紫野

■1 はじめにこの祈りには、驚きと感謝の連続でした。祈りを続けてきた間に、私の心も生活も大きく変化したように思います。まずは、霊の祈りを教えて下さったひかりさんに感謝申し上げたいです。ありがとうございます。
2 レポート
(1)祈り始めた頃
資料を送付していただいた直後から急に仕事が忙しくなり、しばらく着手できずにいました。後でひかりさんに質問したところ、これも妨害の一種だと教えられ、なるほどと納得しました。
ようやく祈りを始めてからは、仕事や職場の人間関係がこれまでにないほど忙しく、同種の案件では始めてという特殊な事態も多数生じ、体力気力ともに限界まで働きました。神様たちは「これは試練だけど、必ず成功する」といつも仰っていました。それを信じて、忙しい中でも深夜などに時間を作って祈り続けるようにしたところ、仕事は困難な状況とは裏腹に、誰も予期しないほどのスピードで進み、最終的に成果を上げることができました。

(2)祈りが安定してきた頃
大きな仕事が一段落し、少し時間ができたため、自分のペースで祈りをこなせるようになりました。また、休日に運動を始めたところ、身体も元気になり心も前向きになれ、新しい友達もできました。
神様たちは、一仕事終えたことをねぎらって下さるとともに、もっと前に進むよう励まして下さいました。
そうこうしているうちに、再び仕事が繁忙期を迎え、以前とは異なる種類の困難な状況に直面しました。ですが、この時は「最終的には上手くいく」という確信があり、以前よりも前向きに明るく業務をこなすことができました。結果、なんとかまとめることができ、達成感を得ることができました。
また、プライベートの対人関係も変化があり、自分から素直に自分の気持ちを表現することができたように思います。そして、人から愛されるのを求めるのではなく、人を愛し赦すことに充実感を覚え始めました。

(3)祈りが日常的になってきた頃
祈りも安定して自分のペースを維持できるようになり、祈ることが日常的になってきました。
仕事面は若干の落ち着きを見せ始めました。また、今までよりも自分で判断できる部分が増え、自由に仕事を進められるようになり、楽しさが増してきました。
プライベートや生活面では、なかなか希望が通らなかったり、ここぞというところで上手くいかなかったりと、悔しい思いをしましたが、これも修行や神のお考えに基づくものだろうと思って受け入れました。人間は刹那的で目の前のことしか見ず、一喜一憂してしまいますが、長い時間や大きな運命の流れからすれば、いま失敗に見えることも、大きな幸せへのステップの一つなんだろう、と考えるようになりました。いろいろ辛いこともありましたが、何かのせいにするのではなく、常に前向きに捉えるようになってきました。

(4)視点が変わってきた頃
祈りは変わらず安定しています。体調が悪い時は簡易な祈りにすることはありますが、何日も祈らない日が続くと落ち着かない感じがしました。喉や頭が痛い時、神にお祓いいただくと、すっと軽くなるのを感じます。また、不思議なことに、祈ってる時は全身の余分な力が抜けて心地よいですし、嫌なことがあった日でも、祈ると心のオリが取れてスッキリし心がきれいになるのを感じます。身体にも心にも祈りは作用しているようです。
仕事面では、新しい業務が加わり、とても忙しい日々が続きました。これまでのような下仕事ではなく、ある程度責任のある仕事を任されるようになって、仕事の性質が変わったことにプレッシャーを感じました。ですが、周りの人と協力しながら一つの仕事を成し遂げた時は、これまで以上に充実感を感じました。新しい仕事から学ぶことも多く、成長できる日々でした。
プライベートや生活面では、神様からご褒美をいただき、苦しいながらも少しずつ前に進んでいる感覚がありました。3歩進んで2歩下がるような感覚で、上手くいったりつまづいたりしながらも、全体としては少しずつ改善されているような感じです。

(5)収穫期
この時期は、神様からのご褒美の時期だったように思います。仕事も落ち着いて時間ができました。慣れてきたこともあって、上司が満足のいくものを作ることができ、仕事の成果に喜び合う機会が増えました。また、公私両方の対人関係について、これまで以上に信頼し合い励まし合う間柄になれる相手が増えたように思います。
また、余暇の活動や身の回りのことについても、小さなことから大きなことまで希望が実現する機会が増え、神仏や先祖に守られているのを感じ、感謝することがいっぱいの毎日でした。
愛については、いまだに愛し赦すことに徹することができず、愛されたり赦されたりすることを求めて苦しむこともあります。ですが、その苦しい想いを正直に相手に話すことによって、少しずつですが、人を愛し赦すことができる人間に近付いていきたいと思っています。
神様(とくに鎮守の神)からは、早く次のステップに進むことを期待されるようになってきました。レベル3は「住んでいる土地の浄化」ということですので、鎮守が切望されているのが何となく理解でき、レベル3に進んでみようと思いました。
以上

■霊の祈り1を11、12年続けております。
半信半疑でしたが、祈り始めて、顔に吹き出物がすごくでて(それ以降その時だけで、そんな事いちども起こりませんでした。)すぐいい結婚相手も見付かり、家も建てて、結婚した先で出産して、そろそろ、仕事探すかな・・・と思った時にこっちの土地ではまだしてなかった祈りを始めて、その日に仕事が見付かり、すぐ採用・・・パートでしたが、子供が大きくなってフルタイムで出来るかな・・・と思った頃には正社員の方が辞められて正社員にしてもらえる事に。
ここまで良くなっていてもまだ半信半疑でしたが、思い返すのやっぱり祈りのおかげだと思うようになりました。
遅くてすみません・・・

この生活を続けていたら、段々と動物がとても好きになり(何か関係あるのでしょうか?)人の為に何かしたいとすごく思うようになり、医療関係、福祉関係の仕事が最近とても気になっています。
以前紫のひかりさんの占いで前世で看護婦さんがいると聞いていたので、そのせいかもしれませんが・・・

何かの知らせなのか・・・祈りレベル2の途中でやめてしまっていたので、これも再開、レベル3、4と続けてみたいという気持ちが強くなり、こちらへやってきました。
また宜しくお願いします。

■私が祈ららのホームページを知ったきっかけはパワーストーンでした。ラリマーという石の優しい波動を感じて泣いてしまい、石と話をしたい、素敵な石と出会いたいとネット検索してる時でした。
初めは何気無くスルーしてしまった後にものすごく気になり、祈ららで検索をかけてじっくり拝見させていただきました。
祈りの体験談を読んで、涙がとまらなくなり、今まで全く興味がなかった近所の神社へ猛烈に行きたくなり何度も参拝させていただくようになりました。

ショップでストーンも何回か購入させていただきましたが、その度に家中が大掃除でもしたかのような清廉な空気になり改めて祈ららのすごさを思い知らされました。
ただ祈りの申込だけはなぜか体が動かず気持ちだけが急いている状態が続きました。

やっと申込ができた翌朝、神社へ祈りの申込をした事を報告しますと間近で鶯が鳴き清らかな風が吹いてきて私が参拝している間ずっと続きました。
こんな事は初めてだったので驚くと同時に感動しました。

祈りの一日目も間近で鶯が鳴いてくれました。
私には謝罪してもしきれないほど傷付けてしまった魂がいて祈りの途中で泣いてしまいました。

第一週目はその魂の事を考えたり、同梱していただいた会報を読んだりしながら驚くほど周りにも穏やかな気持ちで接する事ができました。
内省できる時間がたっぷりありました。
そして、もし自分に時間を遡る事ができるならあの日に戻り、私が最後の砦で守るべきだったあの魂を救えるのにと考えてました。

七日目は神社の桜が満開でその光景のあまりの美しさに娘が涙を流してました。
祈りながら一期一会という言葉が降りてきました。
人や物、魂そして時間も一期一会であり、全てが大切な瞬間なのだと、対峙する相手にとっても大切な瞬間なんだと教えていただきました。

二週目は子供の行事で忙しく内省できる時間が少なくずっと頭痛がしていました。
また、人間関係が悪化しました。
私の普段の悪い言動が原因で身近な人達の悪い所がぶつかり、その二人が喧嘩をしてしまったりと他にも色々なトラブルがありましたが反省するべきところが顕になりました。
私自身は神様の采配の下で起こってる出来事なので時期がくれば必ず終息すると思ってましたので振り回される事もなくいられました。

14日目に共存という言葉が降りてきました。
人との共存、動植物との、そして目に見えない魂との共存です。
人間だけが地球の主役のようになってしまい、まして目に見えないものを一切認めない傲慢な常識がある事、全ての存在を否定せずに振り回されることなく生きる事の大切さを教えていただきました。

3週目に入ったと同時に全てのトラブルが終息しました。

16日目に祈り初めから涙が止まらなくなり、祈りの最後はいつも祈りに来させていただいた事、神社にご縁ができた事を感謝して終わるのですが、その日は[神社に来ていただき]になり、何回言い直してもそうなってしまいました。
私の方が感謝しているのに、でも神様からの胸がつまるような感謝の気持ちで満たされました。
その頃から自分にできる事、生き方を考えるようになりました。

21日目は身の丈で良いと教えられました。
私にはまだまだ業が沢山ありとても弱い魂ですが少しづつ魂を綺麗にしていって、いつの日か周りを暖かく照らせるような魂になりたいです。

祈りはじめてから、理由のわからない焦燥感がなくなりました。
今後も祈りをすすめていきたいと思います。」

※ 神社参拝で涙が流れる時は、ご祭神が喜んでいます。
祈ららの祈りで流れる涙は、ほとんどの場合、ご祭神からの感謝と喜びの合わさった涙です。(紫野)

■1はじめに数年前から子宮筋腫の為、ホルモン剤を服用するようになりました。
当たり前のことですが、更年期症状が出現し、自分で自分の感情がコントロール出来ずにしんどい思いをしておりました。職場の人間関係も微妙でストレスが溜まる状態でした。そんな時、紫野ひかり先生のブログを見つけました。「カルマの解消には興味があるけど、好転反応とか出たら嫌だなぁ」とか「いまでもギリギリなのに悪化とか…考えたくもないなぁ。祈るなら瑞の祈りかなぁ」などと 思っておりました。が、残念なことにブログを見つけた翌日から体調は悪化する、人間関係も悪化する、職場は忙しくなる、やさしくなれないなどの反応が出ました。しばらく様子を見ていましたが、一向に収まる気配は無く「これはもう霊の祈りを祈るしかない」と思い『霊の祈り1』を申し込みました。自分の中にインナーチャイルドがあるのは分かっていましたので、『インナーチャールドカウンセリング』を受け、ワークをしながら祈りを始めました。
2レポート

詳細

・最初の7日間

1日目は仕事の帰りで夜の参拝になりました。
紫野先生は大丈夫とおっしゃっていましたが、午後3時以降、日没後の参拝は神社の雰囲気やあり方が変わるので、お正月などの特別な場合を除き避けた方がいいと聞いていたので恐る恐る参拝しました。夜間なのでちょっと寂しい感じはしましたが、怖い雰囲気はありませんでした。仕事の帰りに参拝して帰宅される方も見かけました。

拝殿の正面には薄暗いですが明かりが灯っており、さらにセンサーで明るくなるようになっていました。この日は21日間参拝させていただくご挨拶のみさせていただきました。翌日は仕事に行く時間の都合で祈りの一部を省略させていただきましたが、穏やかな気持ちになり、背中が温かくなりました。3日目はにわか雨が降っていましたが、神社の上だけに青空がありました。この日から省略することなく祈り始めました。祈り終わった後は雨が一旦止み、徒歩25分のところにある職場についたとたん、再度雨が降り始めました。4日目以降は風で背の高い木の木の葉が鳴っていましたが、地上に吹き抜けることは無く、穏やかで清々しい気分になりました。

・2週目の7日間

8日目は誕生日でした。最初の7日間が穏やかすぎてこのまま何事もなく21日参拝が終わるのではないかと思っていたのですが、無理でした。この日は頭痛はする、不正出血が始まる、しんどいなど精神的にも身体的にもかなり辛い日となりました。鎮守の神社で祈っても改善は無く、この日から母が少量ずつですが1日何回も便失禁をするようになり、トイレも汚れていることが多くなりました。その上、母の便は家中の窓を開けないと耐えられないぐらい臭く、「何とかして」と思いながらトイレ掃除に明け暮れました。

鎮守の神社での祈りは爽やかな風が吹いて、絵馬どうしのあたる音が耳にも心にも心地よかったです。

職場では人間関係が悪化しました。勤務を変わってもらえないか上司に相談したところ、上司に声をかけられた人が気持ちよく変わってくれたので、何度かお礼を言っていました。ですが相手に間違った日にちを上司が伝えていたようで、それが判明してその人が怒り、あなたが勤務を変わってと言わなければこんなことにならなかったのにと言われました。その人は間違った日にちで勤務の交代の予定をしていた為、変わってもらう日に予定を入れていたようです。上司のミスで休み希望を入れていたのにシフトが入っていた人と勤務を変わったので私も戻すことが出来ず、上司もその人を説得し、勤務は変わってもらったままでしたが、鉾先が私に向いているので事あるごとに攻撃されました。

・3週目の7日間

15日目は珍しくカラスが静かでした。いつも狛犬に触らせてもらっているのですが、この日は触らずに帰ろうとしたら「触らないのか?」と聞かれました。初めて聞こえた声に感動しながら触れせていただきました。このままここに居たいとすら思いました。20日目には「なんでこんな事してるんやろ?おかしいやろ」と思いました。これが邪魔かぁと思いながら、21日間参拝することを改めて決意しました。母の便失禁はこの日を最後に収まりました。21日目の参拝を終えたあと、最初の2日は省略した祈りだったので2日空けて2日間祈って満願としました。最終日の前の日人間関係の悪化と精神状態が悪化しましたが、最終日は幸せな気分になり、涙が出そうになりました。

3総括

祈りは2日間省略形で行った為、以降の参拝より21日間の参拝とさせていただきました。身体的には時々しんどかったのですが、大きなさわりも無く、とにかく眠かったぐらいです。母の便失禁の掃除もしんどかったですが、カルマの解消がトイレ掃除ならありがたいものでした。ただ、人間関係は本当にしんどかったです。更年期症状で精神状態が悪化した時に狙ったようにくる攻撃、そんな時に限って仕事で抜けていることが多く精神的にしんどかったです。

そして、仕事を辞めることにしました。自分を振り返ってみて、とてもよく頑張ったと思うのです。更年期症状やそれに伴う感情のコントロール。すぐに苛々するのを宥め、怒りの感情に振り回されないように自分を抑え、毎年予防行動を取らずにインフルエンザで休む人がい中で、休んだら仕事が回らない、人に迷惑をかけると予防にも気を遣い、休んだ人の分忙しくなるのに文句も言わずに数年間、本当によく頑張って働いたと思うのです。退職すると決めたら、悪化した人間関係も「あなたは良く頑張った。仕事を離れて少しゆっくり休みなさい」と言われているように感じるようになりました。不思議なことに、そう思うようになるとストンっと何かが抜けて、解放感と余裕が戻ってきました。『祈ららの祈り』を始めていなければ、きっとこんな風に思うこともなく、ネガティブな思いに振り回されながら今の職場にしがみ付いていたと思います。

4終わりに

インナーチャイルドワークを進めながら鎮守の神社参拝を行いました。
参拝中は色々な事があってしんどい思いもしましたが、無事に終わることが出来ました。ありがとうございます。
最初に比べると随分私自身が変わったなぁと思います。
今度は『霊の祈り2』へと進んで、自分と向き合い、更に学び、成長していきたいと思っております。

■祈りを始めて色んな事がありました。
でも経験や日々が過ぎるのが速すぎてなかなか纏めてご報告が出来ません。
今ちょっと思い返してみるとたくさんの思い出がありすぎて忘れてしまいそうです…。祈りを始めてからずっと鎮守の国常立命の事が大好きで大好きで、そう言っていたら「私もお前の事が大好きなのだぞ。」と伝えてくれて嬉しくて眩しくて次の日もずっと心が眩しくて地下鉄のホームで幸せに押し潰されてうずくまりそうになったこと。
父として、それから異性として大好きになり結婚してほしいと泣いて懇願したり(笑)、(神様は性別を越えた両性のエネルギーなので人間の男女の愛を越えたレベルの高い愛を与えてくれる事がわかりました。人間の私にとって認識できる最大の愛は男女の愛であったために、その力のかぎりで神様に恋をして男女の愛を越えた愛を教えて貰って乗り越える事ができました。)

新しくご縁が出来た神様に反発したり、仲直りして頂いたり、供養では先祖同士の残酷な出来事を見せられ大泣きで祈らせて頂いたり、始めは御先祖様をやっかいに思っていたのに気がついたら自分の一部として大切に思えるようになったこと、

祈らせて頂ける幸せ、自分で供養をさせて頂けている幸せ、神様と共に生きる絶対的な幸福を知り、幸せすぎて嬉しくて嬉しくて心から「御神業に生きたい」と号泣して神棚に向かって土下座してお願いした事…。

などなど…まるで数年間の出来事のように懐かしいような愛しい思い出の数々ができました。
全身で全力で神にぶつかり、悩み、愛し愛され導かれ学びの毎日です。

■霊の祈りレベル1
2月10日から毎日通いました。
平日は仕事帰り、土日は時々早朝です。
初回の時はとにかく祈り参拝に行くことが嬉しくてテンションがすごく上がりました。
私より霊的な存在の方々が喜んでいるようにも感じました。
何か応援されているような感じです。初めての神社はとても厳かな感じがしました。
初日は心身ともに引き締まる感じでした。
2回目3回目とまだまだよく分かっていない感じと、自分なんかに祈る資格があるのか?とかこれでいいのかな?とか祈る意味って?とか色々な内面の会話が出てきました。
2月13日4回目の時にはっきり『我が強い』と受け取りました。
祈るたびに薄々感じていましたが、自分のダメなところが浮き彫りになっていく感じです。

それから2,3日は自分が本当に嫌で、情けなく感じ、このままでは本当にやばい!と思いました。
向き合うところはしっかり向き合い、セルフイメージも持つようにして切り替えるようにしました。

私は以前、自己啓発の様なワークを受けたことがあり、その時に一度自分の内面の汚い部分を知った時に急性腸炎で倒れたことがあります。

そんなことも思い出しながら、その時の免疫があったことは少なからず助けになり、またその時から全然進歩していないことにもガックリし、改めてこれは改心するチャンスなんだと薄々感じました。

その頃から、祈りで出てくるもの≪自己暴露≫を扱う事の大切さが、薄々から確信に変わっていきました。
自己中心的な自分が居心地よかったわけです。
自分の損得勘定で行動していた自分など…トホホ

2月15日は神社から『がんばれ』と受け取っています。

2月18日自己満足優先に祈る。
神社から『やっと分かってきたか…』と受け取りました。

それから少しずつ◯◯◯◯について勉強し、自分の内面と向き合うように取り組みました。今までは都合よく自分の内面と向き合っていたわけです。

2月23日自分を指導して下さる存在をはっきりと感じました。

2月24日ストレスからかタバコを一日一本吸っていたのですが、吐いた煙が何度も顔にかかり『休む暇なんてないんだぞ』と受け取りました。
それからタバコはきっぱり止めています。
◯◯◯◯を勉強したおかげで欲求の執着を区別して手放すことが少しできるようになりました。

2月26日何だか神社は雰囲気が違っていました。
いつもと違う誰かがいるような。
祈り参拝後『合格』と受け取りました。

3月1日今朝祈り参拝に行き21日間の期間は完了しました。
神社にはこれからは毎日ではないと思いますがまた来ますので宜しくお願いしますと伝え、私に何か伝えたいことはありますかとお聞きしたところ、『ありがとう』と受け取りました。

21日間を終えて、振り返ってみると21日前の自分には戻りたくありません。
改心の機会を頂けたことに感謝です。
祈りは毎日続けますのでこれからも宜しくお願い致します。

■霊の祈り2を始めて1ヶ月が過ぎました。供養を始めて、体がしんどくなりました。
ご先祖様がつらい状況が伝わって来るのです。
その時期に紫野先生にメールをしたらその日からどういうわけかとても調子が良くなったのです。
供養ではつらい事や嬉しい出来事もたくさんあったのでぜひ報告をと思うのですが今日は鎮守の事を書こうと思います。

鎮守にはできるだけ毎日行くようにしています。

始めはレベル2の内容でいっぱいいっぱいだったので、鎮守にはサボりがちになっていました。
いつも平日は遅い仕事帰りにしか行けず供養で疲れきっていたのでついつい「毎日神棚で鎮守の神様をお呼びして祈れば一応いいかな」と軽く考えてしまっていたのでした。

その事で謝ると御祭神の切ないような悲しい気持ちが心に届いて来ました。

「(私が)鎮守に通うことをまるで苦行のように感じてそれが出来ないと言って謝る事が悲しい…。神に会いたい会うのが楽しみ。と、嬉しい気持ちで来て欲しい…。」と言われました。

その純粋なお気持ちを知って私はより一層神様を愛しさらに鎮守を好きになりました。

仕事が終わり帰路につくたびに「会いたい 会いたい 会いたい …御祭神に会いたい…」と思いがつのり、毎日仕事帰りに鎮守に行くのが待ち遠しくなりました。

「ここは自分の家だと思って帰って来なさい。」と言って御祭神やけんぞくの霊たちとニコニコとしてちゃぶ台の向こうに座って待っていてくれる姿を見せてくれるのです。

またこんなこともありました。
億劫さからレベル1の内容はやらず日々の感謝だけで祈っていたら、「次からはあの部分(祈ららの祈りの内容)もちゃんと言うのだぞ。まだ禊終わっていないのだからな…。」と優しく微笑みながら言って下さるのです。
それでやはり祈ららの祈りはそれほどまでに合理的で効果的なんだ。と驚きました。

御祭神はお二人いらしてお一人は倉稲魂命様です。
食べ物の神様なので私はこの神様に毎日の食事のお礼をしています。

「毎日おいしいごはんをありがとう。
神様がくれたごはんを食べれて私は幸せです。
これからもずっとこの町とみんなを守って下さい…。」

(私は霊的にはまだ幼いのでいつも自然に祈りの際は子供っぽくなります。神様も子供相手のような優しく可愛いがるような態度をとってくれます。そしてその事に違和感がありません。)

そう言うと、「この町の皆もお前のように良い子になってくれたら嬉しいのに…。」と言って、私にお菓子をくれるのです。

御祭神は私を「良い子になった、良い子になった」と眼を細めて可愛いがってくれるようになったのです。
頭を撫でてくれたり時にはふわっと抱きしめてくれたり…。
本当に我が子のように愛し慈しみ可愛いがってくれるのです。

それで私が特別なのかと舞い上がりそうになりつつもどうかというと、神様は「世の人は誰一人残らず大切な我が子…。」と悲しそうに言うのです。
私や祈ららの皆さんがしているのと同じように神様を愛し慕って欲しいと思っているのだそうです。

時がたつにつれて御祭神だけではなく、けんぞくの霊たちも総出で出迎えてくれるようになったのです。

鎮守参拝を続けてひとつとっても効果的なコツを発見しました。

鎮守に着くしばらく前から心の中で大声で叫びます。
「神様~!今から私が行きま~す ! 待っててくださ~い ! 」
と呼び掛けておくと着いた頃には鳥居の辺りまで出てきて手招きして出迎えてくれるのです。
こうしておくと、着いてからはじめてお呼びだしするよりずっと早く繋がれます。

けんぞくの霊が(幼い男の子の白狐くんで仲良しになったのです)先回りして神社に神様が来てるか見に行って「いるよ。」と報告をしてくれた事ありました。

これは以前の私には正直信じられない事です。
祈ららの祈りを始める前は、神社で神気を感じるどころか冷たくきつい印象しかありませんでした。
神様を見える事も聞こえたり感じる事もありませんでした。
やはり紫野先生がスピリチュアル教室で書かれていたように神様のほうがこちらの霊感を強くして見えたり聞こえたりさせてくれるのです。
見えたり聞こえたりする事は、あまりにもはっきりしていて疑いようが無いんです。
人から見たら妄想や空想だと思われるでしょうが当の自分が疑いようが無い確信と実感をもって体験しています。
何より心の交流が感動を伴って通じあっているのです。
空想や妄想では他者の心の動き感情を感じてしまう事やその交流の実感は得られるはずがありません。
自分は持って無いような崇高で繊細で純粋な心を神様は持っていてそれを感じると驚きと感動でいっぱいです。

神様と対峙するには神様に届くくらいまではこちらも純粋な心にならなければ神様の声が聞こえたりお姿を見せてくれないと思います。なので日々、純粋で居るように心がけています。純粋な心で生きることは幸せです。

あるとき、神棚の参拝のあと寛いでいたら神棚のあたりから「この子を育てて良かった。」とはっきり聞こえました。神様と守護霊が話していたのかもしれません。
これからの私に期待して下さっているのが感じられてとても嬉しかったです。

他にも不思議な事がたくさんありました。
まだ1~2ヶ月の祈りの生活がもう何年かたった事のように感じます。
昨年の自分とはまるで違う感覚があります。
そういえばなんだか以前興味あった事にあまり関心が無くなり今まで楽しかった友達付き合いも減ってしまいました。
飲み会に行ってお酒を飲んだ日や、焼き肉に行った日は祈れなくて祈りをおやすみしないといけない事があります。
残念だけどこれがスピリチュアルでよく言われる波動の変化の事か…と思いました。

残念なこともありますが、それでも今のこの毎日が幸せでたまりません。
神様という父と母に愛され叱られ(叱ってくださりもします。)ながら日々成長させて頂くことは今まで生きてきて一番の最高の幸せです。
この幸福に比べれば過去の楽しみは小さいものだったと感じます。

この幸せは祈ららの祈りのお陰としか言えません。
御祭神は祈ららに感謝されているようです。。
この働きがあったから人と繋がる縁を取り持ってくれて神との交流が広がる事を喜んでおられると思います。
これから誰かがこういう文を読んで自分も神様と繋がりたい。と思って欲しいと思われて居ると感じます。
それだけ神様が人びとを思っていると思うと過去の自分にとっては驚きです。
ただ神様の愛が自分の知っている愛とはレベルが違いすぎて気付けなかったのだと思います。

またいくつもご報告したい事がありますので別の機会にメールさせて頂けたらと思っています。

祈ららの祈りが今後も広がっていくことをお祈りします。

■霊の祈り1を終えて。初めて近所の◯◯神社を参拝させていただきました。
1日目の祈りの時に背中が涼しく感じました。
神社を出た後で頭痛がありました。家に帰ってから霊障だと分かりました。
祈りの文言を心中で祈りました。

次の日からは霊障もなく風邪等もなく無事に21日間を参拝させていただきました。

参拝し始めの頃は職場の同僚が自分に対してイライラとした感じがありました。
また、母親も怒っているわけではないのですが口をきかなくどうしたのか?と疑問に思っていました。

10日くらい経ってくると同僚の態度がやわらかになっていくのを感じました。
19日目頃になると、母親が里芋を買ってきて、それをふかして私の帰宅を待っててくれていました。
それからは母親との会話も増えてきた感じがします。

21日間を終えてからは、物事がスムーズになっているように思います。
気持ち的にも落ち着きがある感じがします。

この祈りに出会えたことに感謝します。
ありがとうございます。
もし できることなら次のステップに進みたく。
よろしくお願いいたします。

■私、祈りを始めて本当に良かったです。
私は今幸せです。
紫野さんにご縁が繋がって大感謝なんです。
鎮守の祈りからご縁が出来た御祭神には日々愛情を注いで頂いて学びの毎日です。
日々悩みや問題があっても夢やメッセージでヒントを貰って考えたりしながら勉強しています。
今はまごころを使った祈りを勉強中です。おっしゃるように神棚は最高です!
神棚の祈りを知らなければ私にとっての神棚は「ただの物」でした。
最近はこれから先ご先祖様の事が一段落すればはもっと神様や霊のために祈りたいと思うようになってしまいました。
霊の道に入ってしまったのでしょうか。
たった1ヶ月で変わってしまったみたいです。
でも幸せでやめれそうにないです。
当分の間このまま頑張ってみて、レベル3に挑戦する時が来るかもしれません。

毎日の祈りが幸せでたまりません。
忌み嫌い逃げ回っていた「清く正しい生き方」が逆にこんなに私の求めていた自由な世界だと思いませんでした。
今は自分に対して「神様に見せる美しい心と正しい歩み」を熱望しています。
自分で信じられないくらいの変化です。

■10年以上前にレベル2で止まっていたところを最近再開しました。
レベル2の供養を始めて一週間余りで霊障がひどくなりました。
体のあちこちが凝って重く、頭がパニックであまり考えられないようになりました。
供養をする体力はなくなりました。インナーチャイルドカウンセリングを受けたあと、夢で夫の仕事に関連するようなものを繰り返し見ました。
準備が足りていないという夢でした。
またこのころ宿便のデトックスがありました。
各家のカルマを自身で見てみたところ、
家の移転の時に人を大量に解雇したので、それで困った人が沢山いる、
無責任で芯のない人を多数出してしまった、
一族や組織で、目下の人に関して責任を取らない態度だった、
女性が男性(少年を含む)を痛めつけた、
自分の得になるようにえこひいきがひどかった、
女性や弱い者を差別し時には切り捨てた、
などが出てきて、それぞれインナーチャイルドヒーリングの方法で、瞑想の中でヒーリングや祈りを行いました。
またこの際、フラワーレメディなども併用しました。

夫の仕事の準備をしたくても、体が思うようには動きませんし、仕事を軌道に乗せるには供養をしなければいけないと思いました。

誕生日に夢を見ました。
ゴールデンレトリーバーの仔犬を散歩のためにケージから出そうとしている夢でした。
仔犬は新しい自分が生まれた象徴かと思いました。

供養でご先祖の方や、何か関連する方がつぎつぎかかって一緒にお経をあげました。
その人たちについていかなくてはいけないので、大変と思う時もありましたが、きちんと出来たようでした。

神棚参拝は特に問題なく、これでいいのかなと思いました。

鎮守参拝ですが、体がつらかったので、週に1回がやっとという期間が長かったです。
やっと安定するようになったところです。
鎮守様との関係は今のところはよくわからない感じです。
カルマがあるようにも思います。

また、この神社の状態があまりよくありません。
参拝を始めた当初は蜘蛛の巣がひどく大変不潔でした。
掃除はまあまあといったくらいで、いわゆる神社らしくきちんとした感じがありません。
一度蜘蛛の巣を払いに行きましたが、地元の人に嫌な感じで見られました。
また、お社が開いたのを見たことがありません。
お社はみすぼらしいのに、外側ばかり飾ってものすごいアンバランスです。
神主の方に問題があるのかもしれません。

自分でもなぜ急ぐのかわかりませんが、よろしくお願い致します。

■霊の祈りレベル1を始めたのは確か3年くらい前かと思います。
その頃の私は、毎日がつまらなく面倒で、こんなにつまらない人生が続くのかとがっかりしていました。
そんな人生を切り開きたくて祈りに挑戦したのでした。
祈りは私にとって面倒で、毎日嫌々鎮守に通っていました。
何とか21日やりとおして私はやっと鎮守に通わなくて良くなった事を喜んだのでした。それにもかかわらず私の生活は少しずつ楽しいものになっていきました。
途中、母がガンになって手術したことがありそれはもしかしたら浄化だったのかもしれません。
私の祈りに、唯一救いがあったのは、「私が幾世も生きてきて絶対に誰にも迷惑をかけていないなんて事はあり得ない、知らずにおかしている過ちがあるに違いない、それを浄化したい」という気持ちが僅かであっても本心で有った事でした。
私の生活は、暗い所に閉じ込められていて出口が見えずにいるという感じでした。
うまくいくはずが邪魔されているようにわざわざ拗れてうまくいかないという事ばかりで、不平不満の日々でした。
私は地獄に居たんだと思っています。

それが少しずつ、良いことがあって、うまく行って、楽しい事があって、それが続いて、毎日がうまく行って、どんどん生き方も上手になって、幸せになって行きました。
他者や神仏への感謝の気持ちが自然に生まれるようになって行きました。

祈ららの祈りでなくても、効果が薄くても、自分の気持ちで、自分の言葉で、鎮守の氏神様に感謝の気持ちを伝えれば良いんだ。と、思うようになりました。
それで、時々、鎮守へお参りするようになりました。

あるときお参りの帰り道で、まるで子を思うお父さんのように優しい気持ちに包まれました。
これは氏神様の気持ちかな?と思いましたが、神様というよりは人間のお父さんのようでもしかしたら別の存在からのものかな、それに境内で感じるのでは無くて帰り道だからやっぱり氏神様じゃ無いのかも。
でも、こんな小さい町の鎮守だから、大きな神様では無くて庶民的な神様なのだなと思いました。

それで私は、氏神様の事が大好きになって、「お父さん氏神様」とか「御父上様」とか愛称で呼ばせて頂くようになりました。
毎日通うようになって優しいお父さんが待っててくれる家みたいに鎮守を思うようになって、霊としての家と人間としての家 二つも大好きな帰る家が出来て幸せに思いました。

祈ららの祈りはやめてもスピリチュアル教室のblogやサイトの記事を良く読んでいました。
それで、御神仏が泣いて喜ばれる参拝というのに憧れるようになってきました。
私も大好きな氏神様に喜んでいただきたいと思うようになって、もう一度祈りに挑戦する事にしました。

私は、鎮守の御祭神がどなたかもわからず、関心も無かったのですが大好きな氏神様の事が知りたくなって調べたら、国常立命様でした。

霊の祈りレベル1をもう一度始めて、祈りの最後に「私を正しい霊の道に導いて下さったのは紫野ひかりさんです。お礼の気持ちを伝えて下さい。」と言いました。

その日、帰って来て夜にスピリチュアル教室のblogをチェックしたら新しい記事がUPされていました。
その記事には国常立命様の事が書かれていました。
私が思った事が書かれていて、これは神様からのおしるしかな、と思いました。
それは12月12日の事です。

鎮守には、もうお一人御祭神が居ることもわかりました。倉稲魂命様です。勝手に御祭神はお一人でそれも庶民的なおじさんの姿の小さい神様だと思っていました。
私はその事をどちらの御祭神にも詫びましたが、私が思う失礼と神様の思う無礼な事はちょっと違うような感じがしました。
つまり怒ってはおられませんでした。
倉稲魂命様はなんとなくお姿を見せてくださったように見えて、私に金色のお米粒を鼻先に置いて下さるのを感じました。
私は急いでそれを頂きました。

そんな風に神様のお気持ちをなんとなく感じられるようになってどんどん神様との関係が個人的なお付き合いになって来ました。
神様の事を感じようとすると、今までつまらないと思っていた日常での社会生活の人間関係で学んで来た相手の気持ちを解ろうとする感性が神様の気持ちを感じる事に役立っていると思いました。
なので、今まで苦手で悩み工夫してきた事が無駄じゃ無かったのだと思いました。

先祖供養にも興味が出てきて、紫野さんに供養代行をお願いしました。
自分がやるべき事が見えてきて始めはきっと皆を幸せにしてあげよう ! と勇気凛々でした。
始めての供養代行の結果のご報告は私にとって悲しいものでした。

さっそくその日の参拝では弱音が出てしまいました。
「私にあの人達を助けるだけのお力を下さい。泣」
そう言ったらすぐに国常立命様が姿を現して下さったのが見えました。

国常立命様が私の前にかがみ、薄金色の剣をそっと手渡してくださったのです。
ちょうど両手に収まる大きさです。
私はそれを両手で受け取って胸に抱きました。
そうしたら「武器は愛」と言われました。

国常立命様は小指を差し出され、「やり遂げると約束できるか」と言われました。
私は半ベソかきながら指切りげんまんをしました。
まるでTVの「はじめてのお使い」のお父さんと子供のような光景です。
普段は「世の中の事は大体わかってるし、それなりに色んな経験もしてきたし。」と、大人ぶってる私は神様の前で霊としてまだ幼稚園の年長さんくらいの小さい幼児なのでした。

私は、以前の心の地獄時代に自分から変わる努力もせずに良いことがあるのをずっと待っていました。
そして良いことを起こしてくれない守護霊様に文句たらたらだったことを思い出しました。
それで神も仏も無い、居たとしても私には関係無い。私を愛してくれる神仏など居ない。
そう思っていた事を反省しました。

守護霊様や神様がどんなに悲しんだかを、浮かばれないご先祖様に触れてわかりました。
私は、私の成長と幸せを願ってくれている、守護霊様や神様を傷つける事を言ってしまった事が良くわかりました。
今、私は新しい人生をスタートした実感があります。

■以前、確か霊の祈り1だと思うのですが21日参りを行いました。
お参りした結果全くというほど人生が好転しています。
氏神様と思っております近所の神社の神様の事が心から大好きになりました。※ こちらから大好きになるということは、ご祭神様からも同じ気持で思われているということだと思います。 (紫野)

■母がこの頃、なくなった両親の夢をみるそうです。
今まで滅多にみることがなかったそうですが、このところ頻繁にみるらしく、祖父母2人で畑仕事をしているそうです。
そして、御経が聴こえるそうです。
生前、祖父はお坊さんになりたかったそうですが、体が弱く、諦めたと聞いています。
先祖供養の祈りが届いているのでしょうか。
霊の祈りをはじめて、祈ることが習慣になりつつあります。
そんな自分に少し驚いています。
神様と向かい合えるようになれたのは先生のお陰です。

■なかなか祈りを始めることができなくて、先生にメールをしてしまいましたが、もう一度インナーチャイルドを見つめて出し切ってみて、そしたら不安が無くなったように思え参拝を始めることができました。
まだ1週間経ってはいませんが、家族がとても元気に生活できています。これは偶然のことなのか、祈りを始めたからなのか私には分からないのですが、普通に暮らせる日常が我が家にはなかったことなので本当に嬉しく思います。
ありがとうございます。
我が家はカルマが重いと思っているので、また急に何か変化することもあるのかと様子を伺ってしまうのですが、今は心から感謝を持って祈りをしようと思っております。

※ 参拝をはじめることができて良かったですね。
そして状況が改善されてきたようで、本当に良かったと思いました。
人によって違いがあるので絶対とは言えないのですが、今までたくさんつらい思いをしてきた人は、参拝によってとても楽になることが多いように思います。(紫野)

■霊の祈りを続けていますが、私はお昼休みに会社の鎮守の神社へ参拝させて頂くようにしています。
会社の鎮守の神社には2つの神社がお祀りされています。
一つは○○神社という鎮守の神社・もう一つは近くのお城の跡地にお祀りしていた□□神社というご神体を移築してきたものです。
鎮守の神社への参拝はスムーズに足を運ぶことができたのですが、すぐ横にある□□神社への参拝は何故だか恐れという感情を抱いてしまい、なかなか参拝することができませんでした。
霊の祈レベル2をはじめて、神棚をつくり、祈りにも慣れてき頃、□□神社へ参拝できるかなと思えるようになりました。参拝初日は挨拶からはじめました。
翌日は全ての参拝を終わり会社に戻ると私の後から黒い蝶が会社の自動扉に飛び込んできました。
時折、雀などが施設内に入ってしまうと出るに出られず大変なのですが、風よけ室のところで止まり、出て行ってしまったのでその時は少しホットした程度で、その時は特に何とも思いませんでした。
翌日もお昼休みに参拝にでかけました。
この日はとてもお天気が良く、穏やかな温かい日差しを感じる日でした。
○○神社の参拝の後に、□□神社を参拝しました。
祈りを始めると黒い蝶が私の肩に触れるくらいの距離に飛んできました。
その瞬間、昨日の蝶は神様の御遣いだったのだと思いました。
涙があふれ出て、祈りの言葉を唱えられないくらい涙が流れてきて、声を出し泣いてしまいました。
長い間、涙は止まらず40分以上かけてお参りをしました。
このようなことは今まで体験したことがありません。
私には神様の声は聞こえませんが、蜻蛉や蝶などが神様の御遣いとなって現れてくれるのだと思いました。

紫野先生とご縁をいただいたことに心から感謝します。
毎日、神仏へ参拝できている自分がとても不思議です。
これからは自分の内面にも向き合って行かなくてはいけないと強く感じています。
スピルチュアレッスンもストップしている状態でおりますが、進めてゆきたいと思います。
これからもよろしくお願い致します。

■しばらく、ず~っと祈りをお休みしていました。
数ヶ月後に、ご鎮守様へ端の祈りではなく、霊の祈りで祈りたくなり、祈ってみましたら、涙が溢れてきました。
祈りを休んでいたことに対しても、責めるような感覚はなく、むしろ暖かで穏やかな波動で包み込んで下さいました。その後、自分の気持ちに変化があり(デイリーヒーリングを申し込んだ後)素直な気持ちで参拝しましたら、「それでいいのだ」と聞こえました。
ご鎮守様の境内の中にあります、摂社様にもいつも参拝していて(女性の、特に婦人科に効く神様だそうです)自分の身体に対して、もっときちんと向き合い、自分の身体ともっときちんと会話をして精進していきます、とお話したら、「それが本当」と聞こえました。

最近になり、なかなかお返事や会話ができづらい神様から、少しづつ何かを感じられるようになってきました。
感じられるようになってみて、気づきましたが、そういった神様は、ちょっと厳しい感じ、気難しい感じがして、とても波動が高い方のように思われました。

なので、自分がいかに愚かな人間であったか、なんという浅はかな人間だったのかと、思い知らされましたと同時に、あ~私って成長しているんだな~・・、成長するってこういうことだったんだ~、意外にシンプルなのね~と感じている、今日この頃です。

■昨日、一宮に参詣しました。
出発前に鎮守に「行ってきます」と言うと、「○○さんはよき方で、そなたを歓迎してくれよう」と言ってくれました。
神社の一の鳥居につくと、耳の奥が圧迫される感じがしました。
三の鳥居をくぐり境内に入ると、とても温かく穏やかでありながら、ものすごい神気と神の存在感で圧倒されました。
空間の隅々まで神気で満ちている感じがしました。祈り始めると、御祭神から
「来てくれてありがとう。もっとそばに来なさい」と言われて、2,3歩前に進みました。その後のやりとりです。
「○○を守ってくれてありがとう。辛い思いをさせてすまない。苦しい役を負わせてすまない」
「構いません。守っているつもりはありませんでしたが・・・。お役に立てるなら嬉しいです」
「これからは好きに生きるがよい。何事も思いのままに生きるがよい。いつも傍にいて、いつでも守ってやる。
また来てほしい。時々でもよい。また会いに来ておくれ。」
「ありがとうございます。また来ます。」

私は驚いて胸が熱くなり、涙がこみ上げて苦しくなりました。
人が多く、参拝にも列ができていましたが、列から離れて人の目も気にせず、長い間祈っていました。
お札をいただいて、お守りもたくさん買ってしまいました。

昨日は家を出る前に、急にお腹がゆるくなり、一気にスッキリしました。
今日は家の片付けをし、久しぶりに家中の天然石や岩塩など浄化グッズを全て掃除しました。
これも一宮の浄化かなと思っています。

ひかりさんのおっしゃるように一宮はとてもパワフルで、神気に満ちあふれていました。
とても強い守護を授かったような気がします。また行こうと思います。

■5年前にひかりさんに初めてオーラの色を見ていただいた時は、赤色でした。
それが、1年前の時はグリーンになっていました。
この間、公私ともにいろいろな困難があり、体調を崩したりもしましたが、
周りの人に助けてもらいながら立ち直ることができました。とても必死だったのを覚えています。
心や魂の成長は常に意識していますが、振り返ると、一生懸命自分の人生を生きることが魂の成長にもつながったと感じます。祈りを続けていると、試練試練の連続ですが(カルマ出し?)、試練は必ず乗り越えることができ、
一つクリアすると魂が成長し、また新しい試練が与えられるという毎日を感じます。
困難に遭遇しても、神の試練なんだと思えるようになり、何だって乗り越えてみせる!と思えるようになりました。
神々はいつもとても優しく、また時には厳しく私を見守ってくれます。
これからも神とともに歩む人生を楽しんでいきたいと思います。

■霊の祈りを申し込もうと思った日から不正出血が止まらず、体が重くて仕事をするのが大変でした。
一週間ほど、出血していたのですが、今まで不正出血をしたことなどなかったので、このまま止まらないようでしたら、検査してもらわなくてはいけないと考えていた時に、霊の祈りの資料が届きました。
すると出血が止まりました。
浄化だったようです。私は実家の新築に伴い現在の場所で暮らすことになったのですが、近隣の様子もわからないこの土地で暮らすのが怖いと感じていました。
その為、初日から1週間ほどの参拝はこの土地へのご挨拶のみを行いました。
鎮守の神社に入ると真黒な蝶々のようなトンボが沢山、神社に飛んで来ました。
今まで見たことがないトンボだったので、不安に感じてしまいました。
帰宅後、ネットで調べると羽黒トンボ、別名、神様トンボという名前で縁起の良いトンボであるということでした。
その日以来、通勤途中に神社があるという事もあり、毎日、参拝させていただいています。

2週目からは神社の参拝の作法の一部を外して1週間。

3週目からは作法のすべてを行うようにしました。

参拝を続けるととても体調が良くなり、重かった体もすっきりと体調も良くなってきました。
今までになくクリアな状態で仕事をすることができました。

3週目から21日間参拝を続けました。
この間体調が悪くなったり、一度すっきりした状態から重くなってしまったりと様々でした。
私は今まで、他人に影響されることが多かったのですが、自分と他人の間に距離を持つことができるようになりました。
また家族に関しても、言われるままに行動するのではなく、できない時はできないと言えるようになりました。

昨日は鎮守の神社のお祭りでした。
休日でしたので、外出の前に参拝しようと神社に立ち寄るとお祭りの準備をされていたので、今日の参拝は諦めることにしました。

すると近所に住む会社の同僚から“今日は神社のお祭りですよ♪”というメールが届きました。
同僚のお父さんが準備を手伝っているとのことでした。

その日は開かれた神殿で参拝させて頂きました。
いつもお世話になっている神様に、心ばかりお祝いを届けせて頂きました。
神様に来てもいいですよ。と言ってもらえたのかなぁと思いました。

鎮守の神社の参拝が終わる頃、会社の近くの氏神様への参拝をはじめました。

こちらでも参拝するとまた、羽黒トンボが飛んでいました。
水辺だからでしょうか。

私は会社が合わず体調を壊して現在の会社に就職しました。
この地にご縁を頂いたお礼を神様に伝えると、涙がこみあげてきて目が潤んでしまいました。
それ以来、時間があれば出勤前に、なければ昼休みにできる限り参拝させて頂くようにしています。

私は長い間、間違った霊性の道を歩んできてしまいました。
知人について霊性を学んできたつもりでしたが、それは間違いでした。
今まで、日本にいながら先祖や自分の内面を正しく見つめないで進んできてしまいました。
なんだか違うと思っていましたが、ここで一気に蓋をあけてしまった状態になり、自分が生まれきた目的を果たす正しい道への軌道修正が始まった気がします。
神様に繋がりたいと思ってもなかなか実行できないことが多いのですが、毎日、参拝を続けられたことに驚いています。

■参拝中、身体だけは丈夫でここ数年、体調不良、風邪もひかなかった私ですが、突然、ひどい鼻水、咳、頭痛などでビックリする事もありましたが、参拝を中止する気にもとうていなれず続ける事ができ本当に感謝です。
まだまだ魂の成長ができずに神様の前で涙する事も体感することもできないですが、まだまだ参拝、気持が足りないと逆にはげみになり、続けて祈ってます。
もっともっと神に近づきたく、心の成長がしたく、次のステップに進みたいと思ってます。

■祈りを始める2日前 家族が風邪を引き、仕事を早退しました
さっそく浄化が始まったようです
1週間 会社を休み、2週間 風邪薬を飲んでいました
私も熱が少し出て喉も少し痛くて3日ほどだるかったです1日目
明け方何度も言葉が聞こえたので枕元でメモしました
「おみえなし」と聞こえましたがネットで調べてみると「おみなえし」でした
黄色い小さな花が固まりになって咲いている花の名前でした
見たことがあります
女郎花(オミナエシ)の効能
解熱、消炎、浄血、解毒、排毒作用、腹痛、下痢、子宮出血
こしけなどに用いられる

女郎花に対して男郎花(オトコエシ)という花がありました

祈りの初日のメッセージは

これから浄化が始まるよ、
人間には女性性と男性性があるけれど特に女性性を癒していこう

といったところでしょうか

鎮守神社に行き祈りました
祈りを読むのに必死になっていました
祈りの一区切りで顔を上げて神殿の方を見るようにしました
祈りが終わったあと 神殿の方を見たら 目が潤んで胸がいっぱいになりました
やはり 祈る何らかの理由が私にはあったようです

2日目
祈りを読み出すと胸がいっぱいになってきて深呼吸しました
感極まるってこんな感じかな

時間は昼の2時過ぎだったので暑くて暑くて
背中とふくらはぎに陽が当たっているのがわかります

祈りを唱えることに夢中になりすぎないように
祈りの一区切りごとに顔を上げて神殿を見つめるようにしました

最後の祈りを読み始めると突然 一匹のセミが
ジィー ジィーと鳴き始めたので

あぁ きっと神さまが
『聞こえてるよ 聞いてるよ』って返事してくれたのだと思います
とてもうれしかったです ありがとう

3日目
連続して祈る予定にしていなかったのですが
スーパーのチラシで大根が特売
母からお使いを頼まれました

スーパーは鎮守神社と目と鼻の先です

神殿の前に立つと男の人の声で
『よく来た』と言ってくれました
リュックに大根を背負ったまま祈りました

どうやら 毎日祈りに来なさい ということみたいです

胸がいっぱいになったので
深呼吸をしてから祈り始めました
祈りも今までよりスラスラと言えるようになってきました
祈っている間はエネルギーが動いている感じがしました

4日目
お賽銭忘れてきたっ

祈り中身の意味がまだよくわかりませんが
なぜ祈りを始めたのかわかりました

「自分の親もいつかはご先祖さまになるんだなぁ」と
そんなことがふと浮かびました

自分のインナーチャイルドを癒すことは
親子関係のトラウマを癒したり、カルマを開放するのと
同じようなことだと思っています

そろそろ親と子の学びから解き放たれようとしている
のかもしれません

だから
次はご先祖さまへの祈りを始めようと準備をしているのだと思います

そんな風に考えていくと
肉体のある相手とのトラウマやカルマを浄化をすることと
肉体がない霊、ご先祖さまとのトラウマやカルマを浄化することは
それほど違いがないように思えました

5日目
昨日の分をプラスしてお賽銭箱へ

『よく来た』とまた声がしました
祈りはときどき つっかえながらもスラスラと読めるように
なりました

祈りの意味を現代語訳で調べて読んで見ると
胸がいっぱいになって泣きそうになりました

本当にそうだなぁ と染み渡る感じがしました

当たり前のことだけど当たり前のことが
普通に書いてあるんですね

6日目
祈りを読み出すと
たくさんのセミが鳴いている中から
一匹だけがさらに声を上げて鳴きだしました

一緒に祈ってくれているのかな
私を応援しようとしているセミだよ~ きっと
うれしいな ありがとう

今日は社のまわりをぐるりと回ってみました
本殿と祈るところは同じでした
本殿の裏に公園 道を挟んで隣には古い家
懐かしい昭和を感じさせる雰囲気です

祈るのが何となくクセになりそうです
鎮守神社は家から近いし毎日通うのは
なんてことない感じです

感じです

7日目
神殿の正面には楕円形の白いモノ
右側に胡坐をかいて弓を持ち着物姿で黒い背の高い帽子
をかぶった男性の仏像が置いてあります
雛人形のように顔が描いてあって布の着物を着ています
人間の半分ぐらいの大きさです

今日は
左側にも同じような男性の仏像があることを発見
右側は年配の方で左側は若い男性です

『よくきた ご先祖もよろこんでおる』と声がしました

祈りが終わっても何となく帰りたくなかったので
何かメッセージがもらえるような気がしてそのまま
立っていました

すると立ちながら瞑想が始まり
足元は固定されたままで胴体が前後左右にグルグルと
回り出しました

それは本当に気持ちが良くて
ずーっとグルグルしていたい気分でした
「ありがとう」と感謝の気持ちが湧いてきました

8日目
手水舎で手を洗ってひしゃくを元に戻したとたん
隣に置いてあったふたつのひしゃくが ひとつづつ
ポコ ポコ と 音を立てて下にずれ落ちました

あまりのタイミングのよさにニヤリと笑いました
私を歓迎してくれたのか、遊んでくれたのか
なんだかうれしくなりました ありがとう

今日はちゃんと
神殿の右と左に仏像があるのを確認
『よくきた』と声がしました

祈ったあとで
家族の風邪が治るようにお願いしてみました

立ったまま瞑想しようと目をつぶったとたんに
左側後ろで『ジャリ』と砂を踏んだ音がしました

神社の中に誰も人がいないのは
わかっていましたが
誰かが私の側に来てくれたようです

9日目
今日は使ったひしゃくを元に戻したら
一番左側のひしゃくだけが 下にずれ落ちました

神殿の前まで来ると
『暑いのによく来た』

あらら ねぎらってもらいましたよ

祈っている間セミは鳴いていなくて
静かでした

暑いけれど風がピューピューと吹いて
涼しくしていただきました

ありがとう
至れりつくせりです

10日目
今日は『歯を磨いて来い』と言われてしまいました
起きてすぐに出かけたので次からは気をつけます

神殿の前に立つと今まで一番胸がいっぱいになって
うれしさがこみ上げて来ました
こういう時は相手も喜んでるって言ってましたね。

祈りの途中まで一匹だけセミが鳴いていました
鳴きやんだので静かになりました
本当に静けさがただよっていました

11日目
『暑いところよく来た』
『歯を磨いてこなくてもいいよ』
うがいをしてくるだけでもいいみたいです

祈りが終わったら
『早く帰れ』
暑いのでねぎらってくれたようです

帰り道 歩きながら・・・

父方の母の生前のふるまいが
嫁たちやその子どもたちに多大な影響を与えている

祖母がいきなりそうなったのではなく
原因はその前からあったのだと

私の代でそのトラウマ カルマは終わりにしよう

そこまで思い返したあと

「よーし 〇〇家 待ってろよー 祈ってやるー」って
つぶやいていました

自宅で瞑想中に誰かでてきました

誰ですかとたずねると
『スサノオ』

若い男性で
公家のような水色の上下の衣装に
黒い背の高い帽子をかぶっています
切れ長の涼しげな目元

『一緒に瞑想する』 と言って 私の左側に座りました
次に創造主のエンソフが現れて右側に座りました

その次は繋がりのある他の高次の存在たちが
ワーッと出てきました
みんなで座って一緒に瞑想しました

瞑想の後
スサノオは『暑いのう』と言うので
「市立図書館が涼しいですよ」と教えてあげると
『行ってくる』

13日目
『よく来た』と声をかけてくれました
今日はちょっと涼しめでした

夜 スサノオが現れて
『一緒に寝よう』と

私はそういう気分じゃないし
なんだか変だなと思ったので

天照大御神に声をかけて
「この人はスサノオですか」と3回確認したところ
返事がありません

大天使ミカエルを呼んで
スサノオと名乗るその人を
元いた場所に連れて帰ってもらいました

14日目
『よく来た』と声がしました
祈りを唱えている間 風が吹いて涼しかったです
心を込めて集中して祈れてるなと思いました

15日目
16日目
17日目
日記を書くのを忘れていました

18日目
祈っている間じゅう
自分の声が頭の中でボワボワと響いていました

カラオケボックスでエコーを聞かせて
しゃべっているような感じでした

19日目
祈っている間 静かに聞いてくれているように
感じました

最後に『また来るがよい』と声がしました

20日目
お賽銭箱の前に立ったとたん
『また来るがよい』

祈りが終わって本殿に背中を向けたら
『明日も来るがよい』

振り返って ありがとう

21日目
神社の狛犬が声をかけてくれました
左側の狛犬が『おめでとうございます』
右側の狛犬が『おめでとうございます ひめさま』

おぉ 私がひめさまだったことを知っているとは・・・
(そういうニックネームで呼ばれていたことがあるので)

境内の中にお稲荷さんの小さい社が置いてあります
お稲荷さんの方をみると
『おめでとうございます』と声がしました

本殿の中からは
『また来るがよい』と声がしました

21日の祈りの修了をお祝いしていただきました
本当にありがとうございます

祈りの20日目で
今年の3月からご縁を感じて関わっていた
スピリチュアル関連の団体と縁が切れました

退会を決めた後
身体が軽くなり気分がすがすがしくなったので
その選択は正しかったのだとわかりました

これは祈りの効果として
不要なものが浄化がされたんですね。

これからのことについて 3つ

今後も
自分自身と愛し合い 本来の自分に完全に戻っていくこと

これまでは
天界の天使たちとの繋がりができて深めていくことができたので
次は神界の神さまたちとご縁をつないで繋がりを深めていくこと

そして
霊的な成長(魂の成長)を続け
宇宙の純粋な導管となり 神さまたちの道具となって
他のみなさんにメッセージを伝えられる人になりたいと思っています

■祈りを続けていると、困難があっても必ず前進するのを感じます。留まることがないというか…現実問題に対しても成長のスピードが早くなった気がします。次々に課題が降りかかってくるのですが、課題があって止まっている時も、鎮守は同情してくれますし、祈りを始める前よりも解決が早まってます。
しかも、目に見えたり感じたりできる成果が出ます。
そして、全てのことは神の意思による成長の糧で、辛いことも悲しいことも乗り越えることができるんだと思います。

とにかく、神と共に生きるとは本当にすごいことだと感じています

■心身ともに疲れ切った日、鎮守で祈っていると涙がぽろぽろ出てきました。
鎮守も「大変だろう、かわいそうに。辛いのは分かっておる。頑張っておる。いつでも応援している」と励まして下さいました。

■1 あいさつ
自分の力で自分の魂や現実社会を変えていきたいと思い、祈りを始めました。途中、いろいろなことが起こりましたが、とても貴重で勉強になる経験ができました。神様のことや、自分や先祖の過去や過去世にまつわる様々なことを振り返るきっかけを与えて下さったひかりさんご本人と、ひかりさんとの縁に、まずは一言感謝申し上げたいです。ありがとうございます。2 レポート
(1)全般
祈りは週に4~6回参詣し、21日間を終えました。
まず、とてもぐっすり眠れるようになりました。仕事を始めてから不眠症で、疲れても寝付きが悪い時期が長かったのですが、ウソのように、すぐに眠れるようになりました。眠りの深さも時間も必要なだけたっぷり取れるので、心身ともにしっかり回復できて、助かっています。もともと眠ることが大好きで、一番のストレス解消法でもあったので、本当にうれしいです。霊障がとれてきたのでしょうか。
実生活は、思ったほどつらいことばかりではありませんでした。今まで隠れていたものが表面化した印象で、特に人間関係において顕著です。ある人にたまっていた不満が爆発する出来事が起こったり、逆に、思いを同じくする人や助けてくれる人との出会いに恵まれました。身体面でも、体調不良がいつもより重かったり、自分のもともと弱い部分がよく出ていると思います。
いつだったか思い出せないのですが、祈りの言葉に「十分孝行ができなかったこと、ご先祖様に十分供養ができなかったこと」を加えた日、この言葉をつぶやきながら涙が出そうになりました。胸が熱くなり、感動するような気持ちでした。
(2)詳細
・第1週(参詣1~6日目)
初日はとても眠くなり、耐えられず寝てしまいました。2日目から、体調に変化がありました。仕事も深夜まで続き、帰宅すると、玄関のドアに鳥のフンが派手に付いていました。こんなことは初めてでしたので、これがカルマ?と非常にビックリし、あわてて掃除しました。3日目からは心がスッキリしてきて、5日目には春風のように爽やかで晴れ晴れとした気持ちになりました。一方、体は常に重く、疲れがたまっている感じでした。
6日目には、鎮守様に心の中のもやもや(迷い、苦悩、くすぶり)をすっかりお話しました。心地よく、いつもより長く祈りました。その後、猛烈に眠くなりました。
この週は妙に身の回りを整理したくなり、家中を掃除しました。

・第2週(参詣7~10日目)
常にのどが渇いて酸味のある飲み物を飲んでいました。勤務時間が長く、小さなイライラが多かったです。身体面は、不調が何日も出ました。
10日目は祈りの後、すがすがしく温かい気持ちになりました。ですがその後、職場でひどく傷つきました。積もっていた小さな不満が表面化し、怒りを覚えました。

・第3週(参詣11~16日目)
11日目の朝、祈っているうちに心の中のもやもやに対する自分なりの答えが出ました。6日目に鎮守様に相談した内容で、答えは、正しく生きるべしというものでした。春の日のようにすがすがしい気持ちになりました。
12日目からは毎日心がすっきりしてきました。精神レベルではまだ世俗的な迷いはあるものの、霊的なレベルでは方向性が決まってきたと感じます。
14日目には、もう一歩前進したいと思うようになりました。15日目も同じで、もう一歩進歩したいという思いが強くなりました。
16日目はゆっくり祈り、お腹の底からすっきりしました。

・第4週(17~20日目)
この週は体調が悪かったです。17日目は朝すがすがしく祈ったものの、午後から体調が悪くなり、仕事を早退しました。
18日目から19日目は、体調も悪く、人間関係も悪化しました。こういう時、以前の自分であれば無理に我慢したと思いますが、今はそれが心身に悪いことだと感じるので、無理はせず、気持ちに素直に従いました。
19日目の夜は、苦手な人へのいら立ちが表面化し、イライラが募りました。
20日目は体調はいまいちでしたが、祈った後、スパッと前向きになりました。ぬくぬくと温かい気分でした。鎮守様のお守りが欲しくなったので、思い切って買いました。

・第5週(21日目)
気分も体調も優れませんでした。今月はいつもより身体の痛みも心の負担も大きく、イライラしたりバテたりしました。
祈りはじめてから、お茶碗とお皿が割れました。何年も食器など割ったことがなかったのでビックリしています。手から抜けるように落下して割れました。何かを背負ってくれたような気がします。

・その後(22日目)
21日目から、仕事や体調の都合で、3日間まが空いてしまいました。少し久しぶりの感じで参詣すると、手水で手を洗っている時に「もう来てくれないかと思った」のような感情が伝わってきました。心配と期待のようなものを感じました。祈った後は、幸せや感謝があふれてきて、満たされた気持ちになりました。他人を愛したい、何かを与えたいという思いが強くなりました。今後とも自分のペースで続けていきたいと思います。

(3)感じたこと
カルマなのか、普段起こらないような問題が起こったり、体調がいつもより悪かったりしました。問題というのは、職場の人間関係にイライラしたり、食器が割れたり、玄関が鳥のフンで汚れたりしたことです。また、体調は、イライラや、痛み、気持ちのモヤモヤがいつもよりひどかったです。
ただ、このような小さな問題はありましたが、全体的に落ち込んだ感じはあまりありません。特に、人間関係は、ゴタゴタはあったものの、大切な方々との愛情や信頼関係はむしろ深まったと思います。私自身の愛情も強くなりましたし、会ってお話する機会に恵まれ、幸せを感じることが増えました。

いろいろ考え、スピリチュアル教室や本を読んでいるうちに、イライラする人たちについて、彼らから「自分を愛して、認めて」という心の叫びが伝わってくる気がして、苛立ちは静まり、同情するようになりました。このような心の空洞は、自分で自分を愛したり認めたりすることで埋めるのが良いのでしょうが、彼らはそれができず、他人からの愛や承認を求めています。でも、それでは永遠に心の空洞は埋まらないのでしょうから、彼らの苦しみは癒えないんだな、と思うと、彼らの放つ誹謗中傷にも冷静になれます。自分からの愛や承認が得られず、他人に求めて、それも得られないから他人を攻撃して、他人からも嫌われる、という構造は、ジャンクフードを食べて栄養失調になり、空腹が満たされずにまたジャンクフードを食べて体調を崩す、といった悪循環に思えます。この構造に本人が気づかない限り、苦しみは癒えないような気がします。
心の奥の方(心ではなく、魂や霊なのかもしれません)は、愛情でできていて、愛情の深さや大きさがその人の本質のような気がします。ときどき、人そのものが変わったような印象を受ける時がありますが、これは愛情の深さや大きさが変わったのかなと思っています。

深い深い愛情や大きな愛情は、自分がそれを与えることができたり、逆に与えられたりすると、他には何もいらないような満足感があります。心というよりは、自分の本質(魂や霊)が喜んでいるのを感じます。私はそういう満足感を、子供のころは感じていて(まさに深くて大きな愛情を与えてくれる人がいました)、とても自由でした。それが感じられなくなって、苦しみや孤独を感じ、万能感がなくなりました。大人がよく持っている利己的な愛着や一時的な恋愛は、子供のころに感じていた愛情とは呼べないもので、それはいくつ集めても満足することはありませんでした。そういう空虚な時期を長く過ごしてきた気がします。
祈りを始めて、神様の愛情や相応の理に触れ、なんと明るくおおらかで包みこまれるような温かいものなのだろうと感じました。心の奥の方(魂や霊)にも届き、満足して安心した自分を久しぶりに感じています。自分の心の奥に今まであったむなしさや苦しみの原因も少し分かりました。これからは、深くて大きな愛情を自分で自分に与え、他人や他のすべてにも与えることができるようになりたいと思います。それを、自分の本質(魂や霊)は、求めているような気がします。

3 最後に
レポートは簡単に書こうと思っていましたが、書き始めると書きたいことが多くて、長くなってしまいました。まだまだ分からないことはたくさんありますが、自分の本質(魂や霊)が求める方向に進んでいきたいと思います。それはきっと、祈りを続けて、深い愛情や大きな愛情を学ぶことだろうと思います。少しずつ前に進みたいと思っています。

■レベル4に進んだ時にはちょうどスピリチュアルレッスンと供養代行を並行してすすめていたので、浄化がきつくなるのを避けるために、祈りには手を出せないでいたのでした。
そしてインナーチャイルドが癒され始めて、幸せな時間の方が多くなった時、供養をするのが億劫になってしまったんです。
浄化がないとこんなに楽なのか~、とわかってしまったので。それで8ヶ月間、先祖供養以外は休んでいたので、とても調子はよかったのですが、新しい家が建って、この土地に戻ってきたら、ラップ音が頻繁にする、左手がしびれて動かない、となんだか祈りを再開するように催促されているように感じて、またちょうど家族の結婚式があり、父を許せない自分がまだいることを思い知り、祈りをしました。
浄化は精神的に毎回きつかったです。(といっても、大事にはならないので、ずいぶん軽くなったと思います。)
新しい祈りを始めるとだいたい2日目3日目から問題が起きて、1週間のサイクルが終わる頃に自分の中に違う物の見方が現れて、気持が落ち着いたり、という繰り返しでした。
以下の記述はその頃書いたものです。

「供養をすると、その相手のいる場所の波動をダイレクトに追体験することになるんだね、やっぱり。
相手の苦しみを一緒に味わうことが、供養なのかなあ。
供養が済んでも、相手は同じ地獄にとどまり続ける。
変化するのはわたしだけ。
わたしのなかの相手との共有部分が日の目を見て、わたしからはがれる。切り離される。
それまでわたしに同化していた相手が、わたしから離れる。
憑いてたものが浄化される、ってこういうことだろう。」

父への祈りでは、怒りを感じました。
並行して、「父からの虐待で傷ついた子供の頃の私」について祈ってみたところ、浄化がきつすぎて、3日で中断しました。
以下はその時のメモです。

「祈りに加えて、インナーチャイルドへの祈りを同時進行してたら、昨日ものすごいいらいら、怒り、それから太陽神経叢の痛みがひどくて、周りに迷惑かけたし、わたしの体もずいぶんダメージを受けた。
怒り。これが胸というかお腹というかそのあたりを痛めつけて、手の甲の湿疹が久しぶりに悪化してるよ。
去年、インナーチャイルドをだいぶ癒せて、それからぱったりアレルギーの湿疹って、ほんと出なくなって、世の中の人たちのアレルギーの原因はインナーチャイルドだ、って確信してたんだけど、いや~、今回のことで、その確信がさらに深まったよ。

それで、昨日は両方とも祈りを休んで、今日は○○だけにした。
インナーチャイルドへの祈りは、浄化がきつい。
こんなにきついとは予想してなくて、ああ、幸せーっていう楽な状態にしばらく慣れきっていたから、よけいきつく感じるのかも。

昔にはもう絶対戻りたくないよ。
怒りと鬱と過食と。
あの地獄はきつかった。
だから、今がものすごく軽い浄化にしてもらってる、ってよくわかるんだ。
自分の精神も身体も本当に辛かったし、子供たちがどれだけ病院通いしたか。
家業の経営状態も。
今は浄化がきついったって、胃が痛くて、手がかゆくて、○○さんが風邪で苦しんでて それはつらいけど、でも、入院やら夜通し看病やら、そこまで悪くはないから。
家業も前のような追いつめられた状況は脱している。
有難うございます。

でも、祈りは無理せず、ひとつづつ、地道にやっていく。
時間かかっちゃうかもしれないけど、私も家族も潰れないように、軽い負荷ですむようにする。
まあ、でも、昨日はほんとにずっとネガティブな思考しかできなくて、すごいね。インナーチャイルドの地獄波動は。

夕方陽もくれた頃にやっと自転車乗ってお参りしてきたけど、緑をずっと眺めながら走ってたら、胸の痛みがいつの間にか消えてて驚いた。
植物の浄化作用って、思ってる以上にすごい。
いつもいつも、ただ黙って、浄化を引き受けてくれてるんだね。
人間はその働きに気がつきもしないけど、そんなことお構いなしに、ただただ、浄化を担ってくれているんだ。
植物たち、自然、ほんとにありがとう。
美しいからそれだけでいつも有難いんだけど、もっといろんなことやってくれてるんだろうな・・・。
有難う。」

「昨日のインナーチャイルドの主張は、やりたくないことをやらされた怒り、恨み。
なんで私が人のことやってやらなきゃならないんだ、という怒り。
私の邪魔をするな、という怒り。
人間への嫌悪、拒絶、憎悪。」

母への祈りをしている期間は、批判や愚痴がいつも頭の中をめぐっていました。
人々の批判し合う関係、その不毛さを感じました。
赤面症を馬鹿にされる出来事がありました。とても傷ついてずっと頭から離れませんでした。どう捉えたらいいのかこの時はいくら考えてもわかりませんでした。赤面症の自分をそのまま肯定してあげられませんでした。

この頃、阿部敏郎さんの『いまここ』というスピ系のブログをたまたま読み始めました。
自我の自分と、おおいなるひとつ=空である自分、という視点からの捉え方を取り入れていた時期でした。

今のわたしの理解。人は何者でもない。同じ人に対して、この人怖い、と思う人もいれば、この人いい人だな、と思う人もいる。
人は鏡。自分が普段考えてるさまをただ映し出してくれてるだけ。
だから、人=怖い、という固定化された存在じゃない。

夫への祈りでは、恐れと、愛を得られないことへの不満を感じました。
「一緒に車に乗るたびに、いざこざが起きて、妻の運転が荒くて危険で、事故を引き起こす『恐れ』があって、自分が感じてる『恐れ』や不安を共有させようとすると、反発するし、どうしようもない、というのが相手(夫)の言い分でしょう。
私の自我が、馬鹿にされた、傷つけられた、って思っちゃって、反射的に反発してしまったけど、もう、からくりがわかったから、冷静に対応できるかな?

相手が恐れの中で日々暮らしていること、母親から得られなかった愛を手にいれようと努力していること。
実は、これが今わたしの周りにいる人たちみんなに共通してる性質、とも言える。
この性質に取り組むのが、今のわたしの課題なのかな。」

「ときどき目にするんだけど、独特の気持ち悪さを感じさせる人がいる。
ああ、また胸が苦しくなってきた。
あれはなんなんだろうって思って、母親に愛されたがってる人間が醸し出す特有の空気、かもしれない。
鬱の人とかすごく寂しがり屋な人とか、そういう人に見たことある気がするから。

こんなに自分を犠牲にしていろいろやってあげてるのに、なんで愛してくれないんだ、っていう不満や怒りがうずまいている。
恐れ、とはまた別で、自己犠牲の報酬として、愛を手に入れようとする人。」

「これ、ほんと巧妙だねえ。
恐ろしくなるね。この巧妙さ。
自我ってほんとに巧妙、この一言につきる。

かわいそうな人、苦しんでる人を見ると、助けたくなるんだよね。
人が助かると自分も幸せな気持ちになるから。
助けられないと、自分も不幸なわけだ。
でも、違う。

はじめからかわいそうな人も、苦しい人もいないし、
当然、人を助けるもなにもないし、
何もしなくても
みんな幸せだよ。
これを肝に銘じておくことだ。
そうしないと自我の幻想にからめとられる。

今日ずっと変でね、なんか人の心配ばかりしてたり、人を助けなきゃ、ってその思考に占められてて、心がざわざわして、そわそわしていた。
昨日から祈りはじめてて、昨日の夜もいろいろ話してたから、相手(=夫)の思考パターンをダウンロードしちゃったんだねえ。
勝手にこうなってんだよね、合わせる気がなくても、接触したもののデータをかってに読み取ってる。
その前の日も、きつい波動の人たちのところへ入ってたからね。
その人たちの思考パターンも読み取ってしまって、クリーンな状態じゃなかったんだ。

助けなくていいよ。
助けようっていう、その思考パターンはどのみち何も生み出さない。
助ける、って時点で、もう波動が低い方にフォーカスしてるから、何もできないよ。
だいたい、はじめから完璧で幸せなものを、助ける必要はない。
相手の完璧さを信じよう。信頼しよう。
神様にゆだねよう。
明るさ、喜び、完璧さ、満足感、信頼、光、愛。
これらを見るときだけ、物事は良くなる。

相手をカワイソウと思うことは誰のためにもなってないね。
相手も自分も低くなる。
カワイソウな人など存在しない。
みな完璧な存在だ。
わかってるんだけどね、その波動の中に行っちゃうと、そっちにひっぱられる。
不幸な自分、問題を抱える自分、っていう自我の幻想にいつの間にかどっぷり浸かってる。
もう、人を見ても人を見ないことだね。

これまでの分析方法みたいのが染みついてて、分析すれば問題に対処できると思い込んでる自分がいる。
ほんとは分析しても幸せにはならないんだけどね。
思考の中で未来において幸せになれる、思い込んでいる。

これ前から思ってたんだけど、人を見た時に、たとえ不幸に見えたとしても、不幸な人だ、と認識しなきゃいい。
真実は、全員幸福な人、なんだから、そう思えばいい。
目の前に認識してるものは、しょせん思考や自我の土俵上にあるものだ。
つまり、目の前にあるものに対する評価や分析結果は、ぜーんぶ嘘、ってこと。
もう、思考いらないじゃん!!って話だけど、そういうゲーム、遊び、なんです・・・。
もう、全部無視だよ。不幸にみえるあれやらこれやら。
ただ、ひたすら相手を、幸せで完璧で素晴らしいものだ、と思うことだ。

思考を使うなら、それが正しい使い方だよ。
ただただ、すべてを肯定するだけだよ。
だってそれが真実だから、それ以外にないんだよ。
大丈夫かなあなんて心配しなくていいんだよ。
だって、はじめから大丈夫だから。」

この頃、ロンダ・バーンの『ザ・パワー』を読みました。引き寄せの法則の本です。

「ザパワーを読んで、どうしてこれを知らなかったのか、って、いや、何度も他の本で目にしてきたけど、こんなに腑に落ちたのは、今回が初めてだったんだ。
恐れとか恥ずかしいとか、いろいろ嫌な感情って今まで、恐れをどうしたらいいか、どう解決したらいいかって、奔走してた。
でも、それが全く見当はずれだったことを教えてくれた。

人への不信感が、恐れにも恥ずかしい気持ちにも根底にあって、人から嫌な目に遭わされたから、警戒して信用しない、って状態になったわけだ。
ここなんだ、すべては。
生まれてすぐに、人は嫌な存在だ、って思ってしまって、その思いがその現実を引き寄せてきた。
人は嫌な存在だ、っていう前提ができあがってるのに、人に感謝したり、人を愛そうなんて思えないよね。
感謝しないとどんどん奪われるよ、って、誰か教えてくれたらよかったのに・・・。
言われても、受け入れられなかったかな・・・。

祈りをやって、もう強制的に祈って祈って、それでも怒りや憎しみや批判非難は日常的にやってしまってたから、効果は半減していたんだろうけど、ホントにわけもわからず祈り続けて四年。
やっと、相手がどんなに嫌な相手であっても、それは過去のわたしが発信してきた感情が今届けられたもので、今わたしにできる最善は、とにかく感謝すること。
言い訳無用。という真理が受け入れられるようになった。

おもしろい。
ホントにつくづくそう思う。
愛を与えれば、愛が与えられる。
愛を与えなければ、奪われる。
なにも悩むことなんかなかった。
そのシンプルなただひとつの法則があっただけだった。
これがわからずに、長い間七転八倒してたわけだ・・・。」

子供への祈りをしました。人への恐怖が根強くて、それがいつも頭の中にありました。

この頃、セドナメソッド(手放す手法)の本を読んで、取り組みました。
自分で自分に質問する形式ですが、自分がいつも思っている思考パターンとは正反対のパターンを質問するので、気づかなかった固定観念に気づくことができました。

受容や平安といった良い感情がわいてきた時も、それを手放すのですが、「そんなの手放せるわけない!手放したくない!」とそれらの心地良い感情に強く執着している自分がいて、手放すことに抵抗しました。
いつもネガティブな感情と一体化してたから、良い感情や気持ちにこんなに飢えていたのか、と理解したら、良い感情への執着が消えました。

自分が相手や物事をコントロール(支配)したいと思う欲求を手放す時も、「そんなの手放せるか!コントロールすることやめたら、めちゃくちゃになっちゃうじゃないか!」と強く抵抗する自分にも会いました。でも、しばらくしてもう一度質問してみたら、「う~ん、確かに、手放しても大丈夫かも・・・。手放せるかも・・・。」と思いなおし始めている自分がいるんです。支配する子供の反応がおもしろくて、不思議でした。

それと同じ時期に、阿部敏郎さんが提唱している瞑想を伝授してもらいました。
これも不思議で、瞑想になんてこの時全然興味なかったんです。
でも、祈ららの祈りの時のように、なんかやんなきゃいけないような気がする・・・という理由だけで、瞑想することにしました。
伝授を受ける前から、頭痛がひどく浄化だとわかりました。
受けてから胸の奥がものすごくあつくて、人から好かれたいために、やりたくないことをやっていた自分が癒されました。
その時の感想です。

心の面でも変化が起きました。 愛を渇望している自分。やりたくない事にやらされてものすごく抵抗を感じている自分。愛を得るために、やりたくないことを我慢してやっている自分。 全部手放しました。 愛を手放しました。 愛に執着するのをやめました。愛が得られなくてもいいと思いました。 手放して、ただ自由になりたいと心底思いました。
そう思った後、ちょうどお付き合いの場に出る機会があり、いつもなら相手の機嫌がいいか悪いかをすごく気にするところでも、それはわたしの責任ではない、と心の中ではっきり宣言する自分がいました。周りがどう反応してきても、あまり気にせずいられました。
自分の不自然さに気づいていながら、長い間どうにもできなかったのが、昨日の今日で、ここまでふっきれたので、驚きました。

「さっき瞑想したら、まわりの人間はみんな敵だ!!っていう意識が浮かび上がってきて、安全欲求だな、と思って、解放のワークやってみた。
そしたら、なんてことだ、としか言えない結果に出会ってしまった。

最初、まわりは敵だ。人は危険だ。自然だけがいつもただわたしを受け入れてくれた。という認識ばかりがめぐって、だから、わたしは危険にいつもさらされている、だから、わたしは安全ではない、だから、周りを警戒して周りをうかがってびくびくして自分を自分で守らなければならない、という結論にたどりつく。
それでふと、まわりがどんな状態だろうと、どんなに危険な人で満ち満ちているとしても、私自身は安心していられないだろうか?って思った。
周りのことは知らない。
周りとは関係ない。
周りはどうでもいい。
ただ、わたしが、『わたしはどこにいても安全を感じていられる。
どこにいてもリラックスしていられる。』と思えば、それが私の現実になる。
私の意識が、わたしの世界を形作っているのだから、わたしが、『自分は安全だ。』と認識しさえすればいいだけの話だった。
わたしがそう思っていいのだと、許可を与えさえすればそれで話は終わりだった。

そこまで考えついた時、わたしが『わたしは安全でいたくない。』 と思ってる自分に出会ったんだ。
いつも安心して暮らしていたいはずなのに、安全でいたくない、はずないんだけど、
最初に、人は危険だ、周りはみんな敵だ、っていう認識があるもんだから、自動的に受動的に被害者的に、じゃあ、わたしは危険に常時さらされてるしかない。
わたしに安全はない、安心してはいられない。
という結論へ、誘導されてたことに気づいた。
けっこうショックだった。
なんだこりゃ、って。
だって、まわりが敵ばかりだったら、わたしに安全は与えられてないでしょ、って、当然のことのように思い込んでたんだもの。

そんなの関係ね~!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
まわりなんて知るか~!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
こんな情報に、40年近くも振り回されていたなんて。
こんな洗脳を40年も解くことができなかったなんて。
なんてことだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

・・・いつもこんな感じで、今まで構築されてきた概念が、それこそばらばらのパズルのピースになって、ひっかきまわされているような日々でした。

弟への祈りでは、足がしびれる症状、姉への祈りでは、全身に湿疹が出て顔が真っ赤になりました。
この頃、家業の子供たちに本音でぶつかって、自分を可哀そうがっている自分を癒せました。

お彼岸の頃は精神的に本当にきつい時期でした。
「朝からどうも子供たちをがみがみやっちゃって、自分の思い通りにいかない相手や、自分はなんにもやんないで、人にばっかりおっかぶせてのうのうとしてる相手への怒り抵抗がくすぶっている。
瞑想すると、こういう嫌な気持ちは一応切ることできるんだけど。

子供に対する怒りが今出てきてる。
思い通りにいかない子供、言うこときかない子供、文句ばっかいう子供、に対するものすごい怒りがある。

そういう子供が、被害者意識の中で生きてることはわかっている。
わたしは愛されていない、わたしの思い通りにはならない、わたしを嫌ってください、わたしを邪魔してください、
そういう無意識のメッセージを強力に発しているから、わたしはわかっているのについそのメッセージにひっぱられてしまうんだ。」

「人間として生きてたら、もう先がないとわかった。
自我とか使い古された怒りや抵抗のパターンや、どうでもいい人間的な社交術とか。
それを超えるためには、もう発狂して社会から逃れるか、死んで肉体を失うことか、それくらいしか方法ないのかな、って。

でも、人間やめればいいんだ、って思った。
細胞として生きればいい。
人間は自分自分で、利己的で、自分と他者をわけようとするから苦しい。

よく、難病で身体が奇形になっちゃった人とかがこうなってよかった。って言うんだよね。
人間やめられたからだよね。
カッコよくなくていいし、働くことを強要もされないし、評価もされないし、人間としてみなされなくなったからだよ。」

「○/○○ごろからものすごく精神的にきつくてきつくて、久々辛かった・・・。
祈りやら、お彼岸のせいだったのかしらないけど、自分の中にあった怒りや憎悪が抑えられなくなっちゃって、なんか一度タガを外したら、噴き出してきちゃったんだ。
今まで溜めに溜め込んできた攻撃的な感情が。
自我が暴走し始めた。
無差別殺人って、こういう状態の時に、発作的に起こるんだろうな、って感じた。

とにかくやることなすことみることきくこと全部怒りの対象になって、あまりの激しさに耐えかねて、人間やめよう、細胞として生きよう、って、自我や感情を自分から切り離そうとした。
そばで他の人間が何をやっていようと、私は人間じゃなくなったんだから、わかりません。
そう言い聞かせてた。
もう何もしたくなくて、何も意味を持たなくなった。

だって、一番いいのはあの世だもん。
この世では肉体があって、自我があって、あれこれ意味のないこと考えるマインドに振り回されてるだけで、マインドから逃れるしかこの苦しみから解放されることはないんだから。

そんなこと考えてて、夜、外国人のJPOPカラオケコンテスト(のど自慢ザワールド)のテレビ観て、そこにアフリカのマサイ族の戦士と、ケニアの女性がいて、そのあまりの笑顔と純粋さにうたれた。
胸を打たれたんだね、あのアフリカの魂の輝きに。
今分かった。
感動がテレビから私に確実に届いてたんだ。
ありがとう。

あれ見てから、なんか歓びのイメージが身体に入ってなんか変化が起きたみたいで、ハートがよみがえってきたんだ。
思考の部分はもう混乱と無秩序に陥って、もう思考は頼りにならないんだ、ってはっきりわかって、じゃあどう生きていけばいいの?助けて!って思った。
そしたら、アフリカの笑顔と魂が救ってくれて、完全に打ちのめされてた自分が起き上がってきた感じがした。

起き上がれ、何度でも起き上がれ、何度打ちのめされてもおまえがマリオである以上、本体である愛は死なない。
だから、好きなだけ、苦悩して、あっちいってこっち行って全てを味わえ。
喜びだけじゃなく、いいものだけじゃなく、怒りや憎悪や殺意や苦しみも存分に味わえ。
全てを味わえ。
それこそが本体である宇宙ののぞみだ、と言ってる気がして、ああ、これでいいのか。
この苦しみこそまさに私の味わいたいものなのか、と思った。」

子供への祈りを再度やって、次何を祈ればいいのか思いつかなかったので、ひと月いっぱい休んでいました。何をやっていたのか、記録がないので覚えていません。
パソコンを開かずに、外へ行っていたのかもしれません。

「今日の供養は、胸によく響いた。
よく響く、っていう感じが最近わかるようになった。

今ね、また違った感情が出てきてる。
ここのところ、とにかく怒り憎悪批判そういう攻撃的な感情ばっかりで、ほんときつかったけど、人込みに出かけることが多かったのがその原因でもあるかもしれない。

春休み終わって、桜がとにかくきれいで、植物がいっきに芽を出して、あまりの美しさにくらくらするようで、頭おかしくなっちゃうんじゃないか、って思った。
植物や自然のいい波動に影響されたのか、怒りはおさまった。
今はね、もっと良くなりたいのに、どうしたらいいかわかんない、みたいな、どっちつかずの感じで、自分に自信をなくしてるような感情。
やりたいことがいっぱいあって、どれからやればいいのか。
やらなきゃならないこともあるし、もやもやするなあ。

最近特に心臓が痛い時がある。
これまでも胸はよく痛かったけど、今までより、特に痛い。
まあ浄化だから、じっと見守るしかないか・・・」

「先週まで胸がすごい痛くなることあって、自己否定や自信のなさに悩まされてたんだけど、祈りを一通りやって、5か月やって、新しいこと始めることにして、供養終りにしたせいか、今日はおそろしいほど平和。」

「桜が好き、なんてもんじゃない。
その美しさに気が変になるんじゃないかと思う。
自分が壊れるんじゃないかって。
自分がなくなって、ひとつになるっていう状態に近づいてるのかもしれないね。」

「家業の子供たちは、みんなちゃんとしないし、遊んでたり話してたり、これでいいのか、って思う。
葛藤をいつも感じてる。
でも、いろんな思いの中で、やっぱり、子供たちへの愛を感じるんだよね、幸いなことに。
個性的な、まあおちこぼれとも呼ばれるレベルの子もいるかもしれないけど、自分勝手で、悪くて、ダメで、それでも、優等生ばっかりの集まりよりはいいのかもしれない、
とも思う。
これが自然な形だろうと。
これを言うこと聞かせようとしたら、そうとうの強制力がかけられるだろうから。

こんなぐらいで、ちょうどいいのかもしれない。
自由にさせたら、こんなもんだろうから。
自由は、いいものも悪いものも、ごちゃまぜに包括して、ただありのままを受け入れる。
排除しない。受け入れる。」

たまたま見かけて気になって、ホ・オポノポノの本を読みました。
祈りで記憶の束をほぐしていくハワイの方法で、祈ららの祈りと同じことやってるな、と思いました。これは、目の前に起こってきたこと全てに対して片っぱしから祈る方法で、今ここにあるものを片っぱしから解放していくのはセドナメソッドと同じでした。
目の前でつまづいて転んだ人がいたとしたら、それも100%私の責任、という考え方で、全ての事象は私の記憶から見せられている、というのを読んで、ああ、そうなのか、と思いました。
祈りも、家族親族に対してはすでにやりました。そこから起こってくる浄化は自分に関係の深いものだろうから、苦しくても引受けよう、自分のことだからしょうがない、と思ったからです。
でも、他人に対して祈るのはまだ抵抗があったんです。

他人のことまでは背負えない、それは自分じゃない、という決めつけがありました。でも、100%自分の責任、と言い切られたら言い訳できなくなりました。
自分の世界に見えてるものは全部自分と関係あるんだ、と。全部自分なのだ、と。
それで、今人間関係で問題を感じている人たちに対して祈りを再開することにしました。

自分が教えている生徒さんたちで、特に騒いで人に迷惑をかける子供、○○会の保護者でやりにくさを感じる保護者。それから再度、家族親類に。
それぞれ、最初の祈りだけをやりました。もっとやろうと感じた人にだけその後の祈りをやるつもりでしたが、結局やりませんでした。

「人の中に入っていると、どうしてもその目の前のことに入り込んでしまってるけど、独りになると、ああ、あれは記憶だったんだな、とわかる。
同じような出来事がいつも繰り返されている。
そのつどそのつど消去しなかったから、自動再生が続いていく。
ものすごく嫌な目に遭ったこととか、なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだろうって思ったこととか、いつもなにか共通点があって、それが繰り返されてる記憶だ、ってわかる。

その、ああ自動再生か。って自分に戻ってくるたびに、なんか、子供みたいに無邪気な存在がいるのを感じるんだ。
我慢しなきゃ、ほんとの自分を隠さなきゃ、って一生懸命ふたをしようとしてる自分がいるけど、ああ、これはホントの自分じゃないな、って思う。
この世仕様に無理やり矯正されてる自分だと分かる。

ホントの自分は、ほんとのことしか言わない。
とってもフレンドリー。
この人野放しにしたら、そこら中の人を抱擁して回るだろう。
なんか、対人恐怖症のくせに、なんかしゃあしゃあと人としゃべってる自分もいて、基本的には人嫌いなんかじゃなくて、人が好きなんじゃないかって思ったりする。
どっちも記憶、か。

なんだかでも、最近。
すごく安心しきった子供みたいな存在を自分の中に感じるんだよね。
その人は2,3歳で、ただこの世にいることが嬉しくて、見る物すべてが目新しくておもしろくて、満面の笑顔なんだ。
子供が2,3歳の頃の姿の記憶だろうか。
それとも私の幼児時代の記憶だろうか。
どちらにしろ記憶だ。」

「この一週間、立て続けに怖い思いをして、だまされたり、裏切られたりというそういう感情。
ええっ!??っていうショックと震えと恐怖に襲われた。
今日も、本当に集まりに出るのが怖くてたまらない、っていう感情に占拠されて困ってた。
肩が震えてた。
なんでこんなに嫌な思いしなきゃいけないんだろうって。
こんなに皆がお互いの腹さぐりあって、陰口言い合って、こんな思いしてまでなんの意味があるのかって。

でも、今回のびっくり事件に巻き込まれて、完全に冷静さを失ってたけど、冷静に全体を見てる人に助けを求めることができて、危ないところを救われたんだ。
ほんと危なかった。今回は。
何が真実で何が偽物か、はじめ完全に取り違えていたからね。
こんなことってあるんだ、っていう気持ちだった。
こうやって人は騙されるのか、って思い知らされた。

でも、危機一髪、くぐりぬけた自分を見て、ああ、守護してもらったんだ、って心底思った。
守護がなかったら、相談相手を選択する時点で間違っていた。
守ってもらってるんだ、という確信を持てた。

確かに自分の予想がことごとく裏切られて、ぐさりと傷つけられるたびに、肩の震えは止まらなかったけど、それでも、そのたびにすぐに回復する自分も感じていた。
それはちょっと不思議な感覚。
傷ついても大丈夫なのか~って。

生きてる限り、記憶は再生され続けるし、ハプニングも事件もなくならない。
でも、大丈夫なんだ。
そうなの。そういうこと。
傷ついても、肩が震えても大丈夫。
だって守護してもらってるから。
違う言い方をすれば、つまり、わたし、という本体は傷ついてなんかいないから、自分に戻って来さえすれば、ただ静かで平和な自分がいる。
そう思えて、だいぶ嫌な感情が消えたんだ。

傷つくのを恐れることはないんだって。
傷つくことを避ける術はないけど、傷はじき回復して、静かな自分にまた必ず戻れるのだから。
汚れたら洗えばいい。
大丈夫。」

「最近家業の経営状態が前ほどではなくなってて、売り上げは落ちているけど、方向転換してる時期なんだろうな、という感触は感じている。
ただ、お金がない、どうしようどうしよう、という追いつめられた感じばかりでもない、正直ね。
家を建て替える必要がある時は、ちゃんと売り上げがあった。今は、もう建ったし、必要な支払いはなんとか払えているしね。

祈り始めて、21日間参拝二か所やって、この二ケ月間ずっと支払いにぎゅうぎゅうさせられる思いしてた。
お金きついなあ~、って気持ちを味わうこと多くて、これが世の中の人たちのいる、地獄波動なのかなあと思ったりしてた。
まあ、きついなりになんとかなってたけど。

税金や保険料や経費、って部分はどうしてもお金必要だけど、普段の生活、そんなお金いらないなあって思った。
昔からそういう気分で生きてきたけど、今改めてそう思った。
どっか遠くへわざわざ出かけて行って、お金使ったりしなくていいし、物もたいしていらないし、たくさん食べるわけでもないし、服もいらないし、おしゃれもしなくていいし、お金のかかる遊びしなくていいし、なんだろう、この感覚。
お金使う生活や物事のほうが退屈なんだけど。

自転車乗って、森の中走ると楽しいし、野菜は冷蔵庫に入ってて、何日かかけて食べれるし、納豆や豆腐は安価で健康的だし、祈ったり瞑想するのは呼吸と同じくらい、もう欠かせないものだけど、何の費用もかからない。
なんにもいらないなあ。
もうすべてある。

そんなこと思いながら、今日は久しぶりに○○寺にお参りしたくなってお参りしたら、本堂で、初めて涙が出た。
今までけっこうお参りしてきたけど、一度も涙が流れたことはなくて、今日はほんとに久しぶりの参拝だったのに、ふいにそうなって、有難いと思った。
不思議だなあ。
この2カ月間、お金がない、お金が足りない、っていう感覚がさすがに消せない状態が続いてただけに、今日はお盆も明けて、霊的になんか改善されたならいいなあ、って思った。
ずっと今日の気持ちでいたい、と思った。

実際のところ、お金をかけなくても、というよりむしろお金をかけない方が、豊かな暮らしができる気がしてならない。
ホ・オポノポノ始めて3か月経ってないけど、お金の記憶のクリーニングはずっとやってて、今、お金に対して、そういう気持ちでいる。
お金がないと困る、とか、お金がなくなることへの恐れとか不安とか心配とかそういう、お金に対する嫌な感情が浮かび上がってきてた期間が過ぎて、今は、お金への執着やこだわりが軽くなった気がするなあ。

そうなんだ。
祈りやっていつも意外に感じたのは、誰を祈っても、感情的精神的な問題だけじゃなく、お金の問題を感じたこと。ほとんどの人に感じた。
お金に困ってなんかいないように思える人でも、なぜかお金を問題に感じて、へえ~、意外だなあって思った。
食べること、飢えだったり、性的なことだったり、騙されたとか、いじめられたとか、容姿のこと、心臓が痛くなる、不平不満、母親と息子の葛藤とか、女性的隷属的なことへの反旗、いろんな人間模様浮かび上がった。
それにいつもプラスお金の心配。

お金ってやっぱり、すごい要素だったんだね。昔から。
みんなお金に翻弄されて狂わされてきた。
そこから自由になるって、なかなかできないことなんだろうな。

お金があろうがなかろうが、その人の幸せに関係ない。
その人が幸せで満たされてるなら、お金がある時も、お金がない状況も、どちらも楽しめるんだろう。
お金よ、ありがとう。愛しています。」

「ちょっとまだ痛い記憶なんだけど、ああ、この人にとってはわたしはアウトオブ眼中なんだなあ、と思う時がある。
そう感じる時、いつも傷ついた。
愛されなかった記憶。
無関心という態度を取られたことへの、恥ずかしさ、悲しみ。
わたしはフレンドリーに対峙してるのに、相手からは拒絶で来られる。
そういうこと、ほんと多かった。
どこへ行ってもそんな目に遭って、外へ行きたくなかった。

私の中に、「自分を受け入れないで下さい。」という記憶があったからなのか、なんなのか、今となってはよくわからない。
祈りで、いったい何が起こったのか私にはわからない。
でも、拒絶とか無関心に関する記憶が前よりは消去されたんだろうね。
そのぐらいのことしかわからない。
それも違うかもしれない。

前は郵便局行っただけで、受付の人に嫌な顔された。
もう、意味はわからない。
何もしてないのに、顔見ただけで嫌な顔される、ってもう、理屈じゃないもんね。
でも、わたしにわからない理由があったんだろう。
昨日も、相手はわたしの後ろの人に話しかけてんのにわたしに言ってるんだと思って、最初話しちゃって、相手的には、誰もお前に言ってねえ。って気持ちだったろうけど、これ、よくあるんだよね。
この記憶よく自動再生される。
あと、フレンドリーに行って、そっけなくされたり、相手にされない記憶。
これも多いねえ。

これはほんとに根強い記憶だなあ。
お前はいらない。
お前のことなど相手にする気はない。
泣いてるわたしを置いてった上級生。
英語キャンプ。
中学校のキャンプのグループ決め。
高校での男の子。
飲み会での居場所のなさ。

でもね、この前資源回収で、久しぶりに会った人にスルーされて、ちょっと悲しいというか傷ついたというかでもその一方で、ちょっと嬉しくもあったんだ。
変だよね。無視されて嬉しいってのも。
でも、嬉しかったんだよ。
わあ、わたし透明になれたんだ。
そう思った。

田舎とか公園みたいなとこ行って、よくきくセリフ。
『何にもない。』
これ、ほんとよく聞く。
うんざりする。
こんなに木々や草花や川や空や鳥や虫たちであふれかえってるのに、『何にもない。』
ふしあなにも程がある。

でも、なんかそれはそうなるべくしてそうなってるのかな、って思う。
自分と波動の違うものは、目に入らないんだと思う。
関心のないものはアンテナには入らないんだ。
それと同じと考えるなら、わたしが相手にされなかったのは、周りの人間のアンテナにキャッチされなかったからで、むしろそれは、よかった~。って話だった。

わたしがほんとに心を開いていたのは山や樹や川や夕焼け空や虫の鳴き声や夜空だった。
メルヘンとか少女趣味とかそういう自分に酔ってるわけじゃなく、ああ、これが真実だったのかもしれないなあ、って。
OSHOやよしもとばななみたいに、人間以外の存在にしか心を開けなかったのかもな、って。
人間の波動は物質的すぎて、反発を起こすばかりで、本当に地獄だった。

皆からのけ者にされちゃうような、排除されるばかりの暮らしをしてきて、人間の味方は誰もいなかったけど、自然はいつもただ受け入れてくれた。
そのままの、このままの私を受け入れてくれた。
どんなに救われたかわからない。
ありがとう。愛しています。

皆からなんか理由もなく反発される、っていうのは、波動が違うからに他ならない。
だから、これでよかったんだった。
自分と波動の違うものは、苦しいんだよ。
だから反射的に排除しようとする。
わたしだって、違う波動の人がそばにくると、つらく感じるもんね。
空気が不快に感じるんだ。
そばに寄れないというか。
でも、この波動の違いも一致も、記憶にすぎない。
苦しみも喜びもただ、消去するだけ。

でも、自己否定の種になってしまってた、相手にされなかった排除された拒絶されたっていう記憶が、実は全然悪い事じゃなくて、むしろいいことだったんだ、って記憶に書き換えられたことは、それは喜びだ。
雛人形が小さいひと箱だったことも、拒絶され続けたことも、なんだ、それでよかったのか。って。

わたしの波動レベルでの価値観じゃなく、物質的な地獄波動での価値観でしか説明されてこなかったから、自然とわたしは否定された。
だって、自然の中に行かせたら、『何にもない。』としか認識しないんだもの。
わたしを見ても、価値を感じないのは当然だよね。
つまんない、不細工な人間。

ありがとう。さようなら。
もう、いいんだ。
もう、わたしは自由だ。
わたしのいたい所にいよう。

地獄波動の記憶が再生されると、苦しい経験となって現れる。
自分の波動の記憶が再生されると、喜びの経験となって現れる。
なんてことない。ただ、それだけだった。
その二種類の記憶を、ひとつづつ、消去する。

そうか。供養や祈りで地獄波動の記憶を消去し続けたから、自分の波動での記憶が再生される余地がでてきたのか。
そういうことかあ。」

※ これが内省です。
皆さまのお手本にしてくださいね。(紫野)

皆さまからのおたより・1 皆さまからのおたより・2 皆さまからのおたより・3 皆さまからのおたより・最新
タイトルとURLをコピーしました